ラッキー俳句
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恒信風同人の出版物 文責:長嶋肩甲

2000年に出版されたもの  
ジャズの明日へ、短歌はプロに訊け!、鳥のない鳥籠、青こだま、おめでとう、短歌という爆弾

2001年に出版されたもの
 かめくん、なんとなくな日々(2001/03/22追加)




2000年に出版されたもの

ジャズの明日へ(河出書房新社) 村井康司著
 恒信風の大河連載「真神を読む」でみられる丁寧かつ奔放な解説は氏のジャズ評論活動で培われていたのだろうということがよく分かる。
 僕はジャズはまったくの門外漢だが、それでもこの本を読んで批評の醍醐味を堪能することができる。大体がジャズ好きには頑固が多い。あれは駄目、こんなの駄目、あれでなきゃ、これしかない、みたいな言説が多く、それはジャズへの愛の現れではあるのだろうけど、接する側はいささか疲れる。
 ジャズ好き、というよりもこれは団塊の世代に特有のものだと思う。村井氏の文章にはその頑なさがない。

 ジャズという言葉は単純に訳すと「わくわく」なんだと思う。氏の語る言葉がわくわくしているからそう思うのだ。
 ジャズってかっこよさそう(ヘボ)、ステイタスなかんじー。でも難しそうだもんなー、みたいに指をくわえているような、僕のようなへなちょこがジャズと出会うのにこの本は最適な入門書である。もちろん筋金入りの人も、多分目から鱗が落ちるだろう。
 今は俳壇にも村井康司の視線が働いていて、これからぞくぞくとなされるであろう批評のもつ爆発力を想像すると、今からワクワクしてくる。多くの俳人に、今のうちにこれを読むことをお勧めしたい。



短歌はプロに訊け!(本の雑誌社) 東直子、穂村弘、沢田康彦著
 
題名の通り、気鋭のプロ歌人二人とプロの編集者が素人の短歌を指導する入門書。面白いのは、参加する素人の中に「別の世界ではプロ」という人が多く含まれていること。映画でいうカメオ出演とでもいうか(カメオってなんだろう)。
 短詩形の世界は粋を尊ぶあまりに、ミーハーな楽しみ方を拒絶するきらいがあるから、この本の醸し出すにぎにぎしさは、それ自体が貴重なものにみえる。
 もちろん短歌に挑む素人側の姿勢はあくまで真摯である。東直子、穂村弘両氏の指導も分かりやすい言葉で実直に読み解いていく。
 以前別の場所にも書いたが、個人的にはターザン山本の短歌が読めるというのが嬉しい。

 この夏はやけに少ない蝉の声トマト食い食い窓の外みる

 これはターザン氏を知る者にとっては、本人が間違いなくよんだだろうという感触がある。千葉すずの歌もそうだが、添削とか指導とは無関係に、個性というのは筆をとった瞬間にいきなり確立しているものなんだということが分かる。一方で指導がてきめんに効果をあらわす人も見受けられるから、読後感は「アンビバレンツな」面白さ、という感じ。



鳥のない鳥籠(本阿弥書店) 植松大雄著
 
恒信風同人でもあるが、植松氏は歌人としてのキャリアの方が長く、これが第一歌集である。
 栞文を書いている井辻朱美氏の文章に、短歌をはじめて間もない、大学生時代の植松氏の様子が描かれている。歌会に四、五人しか来ないときも植松氏は欠かさず参加していたという。
 そしてまさに、今の恒信風の定例句会がその参加者四、五人の停滞期であり、植松氏はここでもほぼ毎月顔をみせる。この律儀さというか真摯さが大学生の頃から一貫したものだったと知って、愕然というか、なんだろう、大袈裟でなく畏怖の感情をもった。
 これは真面目で偉いね、みたいな次元のことではない。情熱というのとも違う。氏はいつ会ってもフラットで、熱気に満ちているようにはとてもみえないのだ。夏休みのラジオ体操を皆勤して時計をもらったようなキャラクターにもみえない。
 熱なら冷める。熱よりももっと大事な、たとえば呼吸のように必要なものとして氏は短詩形に携わっているのではないか。分からないけど。
 姿勢ばかりを語ったが、歌の方、これははさまざまに温度をはらんでいる。

好きにでも嫌いにでもいいなってくれ 裏返しに履く馬の靴下
この鼻血落とすためだけ生まれ来た酵素でさえも虹の輝き

 トリュフォーのいくつかの映画にも思うが、男にしか分からないんじゃないかこの世界の深淵は、というのが植松氏の歌にはあると思う。単に自分を「おれ」という歌があるからだけではなくて、なんだろう。ここから先は僕は評論家じゃないので、うまくいえないのだが。マッチョという意味ではなくて、泣き虫な感じが。
 ともあれ、四、五人の句会に植松氏がいる限り恒信風は安泰。数年後に句集も出してもらって、その昇り調子にあやかって我々も飛躍できたらいいなあ。なんて。

青こだま(角川書店) 佐怒賀正美

 2000年はご覧のようにたくさんの同人の本が世に出たが、句集は佐怒賀正美のこれだけである。俳句同人なのにっ。みんななにやってるんだっ(肩甲おまえもな)。

 SIKAMO! しかも。佐怒賀正美はすでにこれが第三句集である。この大胆なリードの広げ方はどうだろう。牽制球ってものを考えていない。優しい顔して(一度でも会った人はこれが儀礼的な言い方ではないことは分かると思う)なんだろう、このフットワークの軽さとバイタリティは。

 前に知人と佐怒賀正美はSかMかということを話し合った。これは褒め言葉だが、佐怒賀正美は相当なSではないかということになった。

 「青こだま」に収録されている平成九年の項は圧巻だ。この年から翌年にかけ、氏はパソコン通信上で「連日句会」なるものを主宰した。土日を除いて毎日「つくる」のである。僕も参加したが、早々にリタイア。氏は一年とおして毎日十句程度は涼しい顔でつくる。この、涼しい顔がくせ者なんだ。気付けば併走しているこっちはヘトヘト、でも付いていかないとどんどん水をあけられる。でも、悠然と行く佐怒賀正美の背中から目が離せなくなっている周りの皆はいつしかM体質に(そうかぁ?)。

 警棒を素振りしてゐる涼夜かな

ほらほら、俳句もS(へぼ)。

 遊びたくなつて水母でゐるたましひ

 冷まじや月あれば月の抜けあと

もちろんサドっぽくない句も(たくさん)あります。でも、軽やかに責めの姿勢を崩さない、これ俳人に重要な資質・・・そんなことを思わせる句集です。



おめでとう(新潮社)川上弘美

 表題作「おめでとう」は、最初の一文を読み飛ばすと大変である。同人の手嶋崖元は読み終えてしばらくの間「川上さん、業の深い生活してんなあ」と感心しきりだったという。エッセイだと思ったのだ。新聞の元日ごろの掲載だったからそう思ったのかも知れないが、それにしてもなー。「米はもうほとんどないので、飯はあんまり食べずにとっておきます」って、業が深いどころじゃないだろ。

 「おめでとう」の主人公はとりわけ不憫な風であるが、他の作品の主人公たちにもイマドキの文学の女性たちがもつ、たくましさしたたかさがない。「新しい生き方を模索」とかしないし、なにかを克服したりすることもない。声高になにか主張もしない。だから皆、勝ち誇った感じがない。

 それでも、不憫さを感じることとは別に読んでいて安心するのもまた確かなのだ。処世としてのたくましさしたたかさではない、より根元的なしたたかさたくましさを感じさせるのはなんでだろう。

 それは「米はもうほとんどないので、飯はあんまり食べずにとっておきます」という千年後の囁きを、多分、半ば本気で思って書きつけていることの、処世よりももっと手前の根元的たくましさなのだ。



 短歌という爆弾(小学館) 穂村弘著
穂村弘氏は同人ではないが、恒信風九号でインタビューしている。またこの本の編集担当が同人の村井康司であることからも、紹介しないわけにはいかない一冊といえる。
 すでにあちこちで絶賛の声が聞かれるが、その声の多くがこの本の第三章、論評部分に向けられている。
一、二章は導入に過ぎず三章こそ本体であると。たしかに力の配分といった点ではそうかもしれないが、一、二章を云々する人間が皆無だというのはなんというか勿体ない。
 僕などは三章というと、たとえば与謝野晶子の「やは肌の熱き血潮に触れもみで〜」という一首に1ページを割いて論評しているが、九号インタビューでたった一言「ああいう馬鹿勇気を持った歌を」という、これだけでもう全部分かったし、穂村弘の把握力の天才性もより発揮されていると考える。
 むしろ一、二章が醸し出す穂村弘の「視線」を我々は見逃してはならない。特に二章で帯文を書いてもらうために大島弓子の家を探して編集者と歩くくだりの、散文として立ち上るじわっとした感触。自己把握の確かさでつかみ取った手触りをそのまま再現した文章だ。九号インタビューでは散文能力のなさを吐露しているが、彼の文章にはどれも短歌と等しいきらめきがある。


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2001年に出版されたもの


かめくん(徳間デュアル文庫) 北野勇作著

 題名や帯から、のほほんとか、ほんわかとか、そういった方向性を想像させるが、実際の読後感は少し違うところに着地する。まあ、たしかに殺伐としてないし昨今のSF(くわしくないけど)にみられる「セイキマツテキなタイハイのむーど」とも無縁だ。活劇らしい活劇もあまりない。

 じゃあなにがあるかというと、まず思弁がある。かめくんは様々のことを「推論する」。一人で歩きながらみたものを黙って感じ取る。かめくんには分からないことも多い。かめくんが何者でその世界での役割はなにかということは徐々に明らかになっていくのだが、そのことについてかめくんは考えるが苦悩しない。だから逆境を乗り越えたり、運命に抵抗したりという物語的なカタルシスは追求されない。

 もう一つこの小説に色濃くあるのは「無人の気配」とでもいうべきものだ。かめくんが歩くのは両脇を芦原に囲まれたまっすぐの自転車道、平日の図書館、閉館間際の動物園、元・万博会場の跡地につくられた公園、稲の刈り取られた跡の田んぼの畦道、地下道、駅の向こう側、夜中の木造アパートの共用トイレ、何が置かれているか定かでない倉庫、そのどの場所にも「閑散とした気配」が漂う(もちろんそこここに人はいるし、大群衆のシーンもあるが、それもまた絵空事のようなのだ)。

 この無人の気配をひたすら歩く気分、それだけを味わうための読書。僕は十分カタルシスを味わいました。

 のほほん好きにもおすすめ。マンドリンや、女の子のナップサックを甲羅にみたてて「カメに似てるね」と心の中で思うかめくんはキュートです。・・・あ、それと「かめくん」を読んだ後は当webにも掲載されている北野さんの俳句もみよう。あちこちに亀が出てきて楽しいから。


なんとなくな日々(岩波書店) 川上弘美著

 川上弘美は「いい」ではなく「よろしい」の人である。文章だから畏まっているのではなく、普段の会話も「うん、いいね」ではなく「うむ、よろしい」ほんとか。それはちょっと嘘かも。

 「純文学」畑の作家も「エッセイ」の領域では割とくだけた、ざっくばらんな一面をみせたりする。エッセイとは元来そういうことを期待されている面もある。正装じゃなくTシャツで、的な。

 ちゃんとこのエッセイもざっくばらんで、くだけており、そういうニーズにも応えてくれる。が、同時に「よろしさ」もキープされている。やはり川上弘美の「よろしさ」は技巧だけによるものではなくネイティブなものなのだと再認識することができた。「よろしさ」とはいっても、浮き世離れしていたりはしない。生活に根ざしていながら「よろしい」というのは希有なことに思う。一方でカッコ書き部分における作者の自注というかツッコミはいつも以上にちゃらんぽらんぶりが発揮されているから、読んでいるとどんどん不思議な人だという印象が強まります。

 それとここでは紹介しないが、同時期に発売された「彼女たちは小説を書く(メタローグ)」における後藤繁雄との対談は川上文学を考える上で必読。


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