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第9号

穂村弘氏インタビュー

「今はまだないものに対する憧れと夢は、絶対になくさないぞって思ってます」

聞き手・・・村井康司寺澤一雄長嶋肩甲植松大雄
ゲスト・・・入谷いずみ氏(「かばん」)


  ベンチプレスから短歌へ


村井 まず、短歌を始めたきっかけについて教えて欲しいんですけども。

穂村 大学生の時ですけど、なんかやりたいじゃないですか、熱中できるようなことが。でも、非常にそういうものを見つけるのって難しいことですよね。で、俺すごい暗かったし(笑)、非常に自意識も強かったので、人と交わるようなものはまずできる感じじゃなかったんです。だからいろいろ、何をやろうかなと考えていて、最初に学校のトレーニングジムに行ってですね、バーベルを上げる、ベンチプレス、あれをやり始めたんですね。回りはアメフト、ラグビー系の人がほとんどなんですよ、ああいうウエイト使うようなジムっていうのは。俺なんて暗い小僧なわけで、明らかにカラーが違うから、ずっとそこに通ってても友達とか全然できなくて。ひとりで黙々と毎日行って毎日バーベルを上げるんです。あれって少しずつ眼に見えて重いのが上がるようになるじゃないですか。それでね、中毒になるんですよ。で、勝手に途中で意味付けをするの。自分が六十キロでしょ、最初は自分の体重の1・5倍上げられるようになったら、俺はなんか壁を破って進化するんだみたいな妄想に取り付かれて、九十キロ上げるんだよね。それでもなんにも起きないんだ、相変わらず暗いままだし。だからおかしいと思って、次、百キロっていうのがすごい輝かしいものに思えて、百キロベンチプレスで上げられるやつはそんなにいないぞとか思い始めて、百キロ上げるんだ。でもだめなんだ、なんにも起きないんだ(笑)。俺ね、体重六十キロで107・5キロまで上げたんですよ。 で、 百二十キロってその時頭の中にあって(笑)。 体重の二倍を上げたら性格とかも変わって、友達とかも増えてみたいな、そういう妄想に取り付かれて。完全な妄想なんだよね。でもね、実際には回りには俺以外はみんなジムにいるような連中は顔見知りで友達なんだよね。俺ひとりだけ、だって全然違うでしょ、修行みたいにしてやるからさ。

村井 その時一緒にやってた人たちは、穂村さんのことどう思ってたんだろう。

穂村 それはわかんないけど、間違いなく気持ち悪いでしょうね(笑)。で、例えば外人なんかいっぱいいるじゃないですか、上智だから。そうすると、もう全然違うの、基本的なパワーが。「ライク・ア・ヴァージン、フゥ!」とか鼻歌歌いながら、こうがちゃんがちゃんやるんですよ(笑)。それを見ると眼の前が暗くなって絶望的な気持ちになって、俺が一年間やっても上げられなかったウエイトを、「ライク・ア・ヴァージン、フゥ!」(笑)。
 で、並行して図書館とかにも行くわけですよ。図書館で一生懸命勉強して、自分のある道みたいなものをある程度掴んでる連中がいるじゃないですか、学校だからね。それで、わからないものを調べ物とかしている女の子なんかがいると、それもまた羨ましいわけですよ。でも自分にね、別にそんな興味のあるものがないわけ。興味あるものがないのに、熱中することには羨ましいっていうのもすごいあって。それで、結局図書館で「短歌研究」かな、だから図書館を隅から隅までうろうろするわけですよね、いろいろ。そういう気持ちがそういうものを手に取らせるっていうのかなあ。普通じゃないですよね、二十代で短歌とか俳句にまで行き着くっていうのは。何か個人的なドライブ感が合っていて、それで手に取って、これだったら別に基礎体力とか関係ないし、人交わりもいらないし。

村井 文学に行くっていうのはパターンとしては比較的あるような気もするんですけど、短歌っていうのを選択したわけでしょ。中学高校の頃にすごい文学少年だったとか、そういうことはあったわけでしょうか。

穂村 基本は同じですね、さっきのベンチプレスの話と。自分が不如意だっていう感じがすごい体感として強いんで、文学もそうなんだけど、いわゆる文学っていう感じではやっぱり捉えられてなくて、非常に世界のエキスみたいなものを書かれたものを求める。ヘッセの『デミアン』とか、中井英夫の『虚無への供物』とか、本屋に行って本の背表紙をばーっと見るんだけど、普通の文学っぽいタイトルのものはいっさい眼を引かなくて、世界の秘密が書いてあるようなものにだけ興味が行くわけですよね。極端な書名のもの。そういう指向は強くて、だから別にジャンルとしてそれぞれを強く意識してたわけではないですよ。詩でも小説でも別に関係なかったということですね。

村井 最初に興味を引かれた短歌作品はどういうものでしょうか。

穂村 「短歌研究」の手に取った号というのは、口語短歌の特集っていうやつだったんです。井辻朱美なんかが林あまりの歌なんかについて書いていて、俵さんも当時出てきてた時期だから、それを見てね、「ああ、これがありか」っていう感じがすごくしましたね。短歌についての基本的なイメージっていうものはもちろん持っているでしょ、「なんとかなりけり」みたいな。これならできるなっていう感じが直感的にしたんですね、実際的に。

村井 で、いきなり作り始めちゃったんでしょうか、これを読んで。

穂村 そうですね。購買部でカードを買って、授業中書くわけですよね、なんか。できたら、隣で授業聞いてるやつに見せるとか、そういう感じですね。その「短歌研究」と同時ぐらいに三一書房の『現代短歌大系』っていう本かな、全十何巻あるんだけど、夭折歌人と新人賞が一巻になってる、あれをまず手に取ってそれを読む、そういう感じで。あと、あの頃デニーズとかに毎日二回ぐらい行ったりして、夜中とかよく友達と行ったりしてたけど、そういうところでも書いて、また見せる。

村井 見せて反応ってありましたか。

穂村 だいたい男は駄目ですね、はてなっていう感じ。女は必ずおもしろいねって言うから、これもまた反応としては駄目なんだ(笑)。だけど、みんな割と揶揄するような反応はなかったですね。「これは俳句?短歌?」みたいな感じで、「短歌、短歌」って言うと、「ああ、五七五七七だよね」みたいな感じで、なんか非常に柔らかいですよね、その反応っていうのが。

村井 他の歌人、短歌を作ってる自分以外の人間と初めて接触したのはいつ頃のことなんですか。

穂村 夏前ぐらいに作り始めて、それでカードに書き付けていて、当然誰も知らないんですよね、歌人とか。締め
切りが翌年の二月っていう角川短歌賞にそれを出したんですよ。そしたらそれが角川短歌賞の、俵さんが受賞した年の次席になって活字になったと。当然まだ全然誰とも接触はないですよね。それで、俺が短歌を書き始めてから一年半後の秋かな、加藤治郎っていう人が、彼はその年短歌研究新人賞を取ったのかな、手紙をくれて、上野の丸井の前で待ち合わせをして、会ったらすごいもっさりした人が待っていて、こっちはこっちで、彼、この間書いてたけど、唖然とするほど暗いやつが来たって(笑)。それで二人で上野の居酒屋だったか寿司屋だったかに行って。それが歌人を見た初めてですね。

村井 ということは本当にひとりで始めて、間もない時に応募して次席になっちゃったということですよね。だから、結社だとか同人だとかそういうことを全く抜きにしていきなり書き始めて、それである意味でルートがそこでついちゃったみたいな感じなのかなあ。

穂村 そうですね。

村井 応募する頃には短歌を書くっていうことに、もうはまった状態になってたんでしょうか。

穂村 はまったっていうのがどのくらいのものを指すかにもよるけど、そんな感じではやっぱりなかったですね。はまったって言うほど、これだっていう感じが。本当にこれ意味あるのかなあっていう感じに苛まれながらやっていたような、でも他にすることもないし。っていう感じですね。

村井 最初に書き始めて応募する頃に、影響を受けたとか、アイドルだったとか、そういう歌人っていうのはもう既に存在してたんでしょうか。

穂村 いましたね。その三一書房の本に、今俳句やっている長岡裕一郎さんの歌が載ってて、「ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男達」とか、そういうものすごい華麗な歌で、そういうのを見て、こういうのありかっていう感じがあったし、あとは、やっぱり塚本さんの闘魂みたいな感じ、それから寺山修司の初期歌篇のすごい不自然な明るさですよね、あの人工的な明るさみたいなもの、そのあたりが。それから、中井英夫の『暗い海辺のイカルスたち』っていう歌人論みたいなのがあるんですが、それを読んでたので、春日井健さんとかそのあたりの名前も知ってましたね。だからいわゆる前衛短歌。で、それらの模倣というのか、不自然なことをやってもいいんだっていうこと、わざとらしいことをやってもいいんだっていうこと、そういう感覚をすごく持ってましたね。自然体とか等身大とかいうものに対して非常に拒絶反応があったので。不自然なこと、明るいこと、そういうことをやろうっていう感じがすごくあったですね。

村井 加藤さんと会って、その後の動きっていうのは、つまりひとりじゃなくなったわけでしょうか。

穂村 そうですね、それで友達とか少し増えたのかな、物を書くような。それで、勉強会みたいなのを始めたんですよ、目黒で。中山明とか林あまりとか、加藤治郎とか水原紫苑とか、今の中堅クラスになってる連中で。でもあの層っていうのは、みんな僕よりちょっと年上が多くて、歌歴っていう意味で言うと全然上が多いんですよね。だからいちばんその中で何も知らなかったかなあという感じがあって。それで、そこで中山さんと林あまりに会って、「かばん」に入ったんですね。だからそれが八八年。八六年に角川短歌賞に出して二年後ぐらいだったかなあ。そこで初めて本当の意味で集団というか、まあ結社じゃないですけど、そういうものに入った。

  
短歌・俳句・散文

村井 短歌以外の詩型、例えば俳句でも自由詩でも、そういうものに対する興味っていうのは全然なかったんですか。

穂村 俳句にはありましたね。詩にはあんまりなかったんですよ。なんでなんでしょうね。定型に対して、意識はしてなかったんですけど、なんか親和性がやっぱりあるんだと思うんですけど。あと、惹句とかあるじゃないですか、「娘盛りを渡世にかけて、張った体に緋牡丹燃える」とか。映画のコピーとか、ああいうのに割と弱くて、昔から。だから手帳に書いたりとかしてたので、そういうのはあったんですね。でもね、俳句か短歌か、どっちをやるかを迷うとかいうことはなかったですね。始めからもう直感的にわかってましたね。自分の体感みたいなもの、妄想的なテンションの上げ方は、俳句では通用しない。砲丸投げとハンマー投げと円盤投げの選手が、なんでそれを専門にするのか、分かれるのか、とか不思議に思うじゃないですか。でもね、俺の中では俳句とかは砲丸投げのイメージに近くて、砲丸では通用しないって感じがあって、ハンマーだろうっていう感じがあってね(笑)。ハンマー投げの感じで短歌を選んだんですね。

村井 短歌のどういうところが向いてると思うんですか。

穂村 俺はかわいそうだ、みたいな気持ち、自分に対する執着ですよね。自意識とか、自分自身に対する未練とか執着っていうのがすごくあって、それを手放さなくてできるものを選んだんだと思いますよ。むしろそれに対する執着が力になり得るような。俳句は直感的に、本当にいい句を作ろうとしたら自分を捨てさせられるっていう感じがわかってたんだと思いますね。そうは意識してなかったですけど。だから、三鬼とか好きでしたけど、きっと俺はなれても三鬼だな、みたいな感じっていうんですか(笑)。それはまあ、ひどい言い草なんですけど、なにか違うんじゃないのかという感じが。寺山とか三鬼の句が好きだったんですけど、それって要するに俳句が本当にやれる体質じゃないってことじゃないかなっていう。

村井 穂村さんが散文というか小説の方に行かなかった理由というのは。

穂村 形にするために言葉を材料として使う、ツールとして使いますよね。でも、あまりにも心が乱れてて、ある一定のトーンで文章を書いて行くっていうことが、できなかった。今でもその傾向がすごくあるんですけど、ワンセンテンスを書きますよね。すると、次のセンテンスを、その一文に対して当然ちょっとだけ話を進めて、ずらして書くじゃないですか。その具合がよくわからなくて、同じことを書いちゃったりするんですよ。同じことを三行違う言い方で書いて、次の四行目にあまりにも飛んだことを書いてしまったりするわけですよね。グラデーションにうまく話を進める力がなくて、話が戻ったり飛び過ぎたり、「あれ、これさっきも同じことを俺書いたな」っていうことを書いたりするっていう、そういうことが実際にあって、全然駄目でしたね。
 あともうひとつは、他人の体感とか他人の考えとか他人の欲望とか夢とかが全然想像できない、今でもそうなんですけど。だから、登場人物とかが二人以上になると、その人が何を次にするのかわからない。俺じゃないからわからないっていう。

村井 穂村さんが書いてる短歌は、基本的に一人称なものなわけですか。

穂村 もちろんそうです。僕、ハードボイルド小説もすごく好きなんですけど、あれ一人称じゃないですか。他人の考えって基本的にわからない、っていう前提で書くじゃない。チャンドラーがすごく好きなんですけど。あの感じですね。

村井 自由詩とか散文と違って、短歌も俳句も定型っていうのがあるわけですけど、定型によって何か救われるとか、定型があるから書けるとか、そういうような気持ちはありますか。

穂村 それはいろんな面からありますね。まず、すごく変かもしれないけど、いったん書いたものは奪われないっていう感じがあるっていうのかな。ある悲しみとか執着とか、喜びでもいいけど、そういう感情が短歌の形になっておけば、それはもう誰にも奪われないんだっていう感じ。で、自分が死んだ後もそれは生きているんだっていう感覚がまず心安いっていうのか、そういう感じがあって。あとは、まず前提として一人称のものとして読んでもらえるっていう感じで、やっぱり自我が補強されるような感じっていうのがありましたね。自意識が強いって、結局自我が弱いから自意識が強くなるんであって、そういう意味で自分を補強してもらえるような感じがすごくあった。あと、いちばん極端な熱狂的なものを一瞬提示すれば、それが持続しなくてもいいですよね。それもやっぱり自分の体質に合ってるんじゃないかと思いました。

村井 例えば穂村さんの短歌で、音数は完全に五七五七七なんだけど、それと気が付かないでぽんと提示したら、そうじゃないっていうふうに思われそうなものってけっこうあるでしょ。会話だけになってるのとか。それは、単なる一行の詩ではいけないという意識はありますか。つまり、音数律としては五七五七七があるべきだという。

穂村 血液型がA型なんで、なんかきっちりしたいっていう(笑)。気になるんですよね、字余りとか字足らずとか。

村井 字余り、字足らずは、実はすごく少ないんじゃないですか、作品の中で。

穂村 生理的なリズムみたいなものが、つまり自分の体内のうねりみたいなものが、ある人にとっては、それが例えば既に存在する定型とずれてても、ある確信を持ってそれを出していけるんだと思うんですよ。でも自分の中にそういううねりがないと思う。カメラのフラッシュみたいな感じがすごくあって、「フラッシュ、パッ」っていうあの感じしかないから、リズムの面で言うと、既にあるもので何らかまわない、僕にとっては。こっちよりも優先したい自分だけのうねりがないっていう感じですかね。で、そのフラッシュみたいなものに関しては、そうは言っても最初に自分で書いた言葉がはまってない時もあるわけですよ。でもそこから、もう一度そこで定型の方に合わせることで、そのフラッシュ性は強まるんじゃないのかなあっていう感じがなんとなくしますね。
 やっぱりどこか定型を命綱みたいに感じてるのかもしれないですね。フラッシュみたいな体感っていうなら、なんでそれをそのまま自由詩にして、フラッシュのように出さないのかっていうのがありますよね。なんでなんだろうなあ。別に、定型が生命をガードするとは思わないけれども。

村井 それは例えば、五七五七七という音数律というかリズムっていうのが、実は巨大な蓄積があるわけですよね、何千年かの。それによってなんか保障されるものがあるっていうふうには思わないんですか。

穂村 思わないですけどねえ。あるんでしょうかねえ。今日も別の原稿でそういうことを書かなくてはいけなくなって、ちょっとうまく書けなかったんだけど。あるのかなあ、そういうのって。莫大なそういう霊に守られるとか。感じないんですけどね。

村井 近代短歌以前の歌、和歌に対する興味っていうのは積極的にある方ですか。

穂村 僕は、興味はあるんですけど、本当にわかんないんですね。近代短歌から一気にわかる感じがするんですよ。結局自我の問題だと思うんですけど、茂吉が難解とか塚本が難解とか言っても、僕にとってはそれ以前の和歌の感じに比べると、もう全然違うぐらいわかりますね。あれはもう本当に自我を装置として使ってるようなところがあるから。それ以前の和歌の感じ、つまり、都鳥は名前が都がついてるから、それに向かって言う、お前それをなんか伝えてくれ、とか、ああいう感じっていうのはね、僕にはわからないですよ。

村井 今短歌をやっている方々の中で、近代短歌以前のものに対する非常に深い理解があるというか、身体でわかっちゃってる人もやっぱりいるんでしょうか。

穂村 だから、それがすごい不思議なところでね、例えば、釈迢空が、折口が古代が見えるとか言ったって、それは言ってることはわかるし、信じられるんですよ。なんでかって言うと、それはあの人個体としての、めちゃくちゃ深いカルマのようなもの、すごいさみしさとかすごい孤絶感のようなもの、それを突き詰めて突き詰めて突き詰めて、そのことがタイムマシンのようになって、時間を溯った把握でしょ、その構造はわかる。それは彼だけの自我をベースをしてるから。僕にわかるのは常にそこだけで、それとは離れた共同体的感性への歴史とか、その共同体的感性を日本人なら溯れるはずとか、ということになると、もう全然わからないですね。
 突出した個体のカルマが飛び火のように見える、つまり過去の歌人に自分にわかる人がいるとすれば、それはその人が特殊な魂の色や温度を持ってるから、その特殊さと、自分が自分でしかないっていう、自分なりの特殊性とが響き合った形で理解できるんであって、昔の人はみんな鳥に都っていう名前がついてるから、こいつは都に自分の心を運んでくれるって思っていた、っていうのは全く意味不明ですね。

  
表現とソウル……砂鉄と磁力

村井 古い歌を読んで、テクニカルな部分で参考になったりわかったりすることってどうですか。

穂村 わからないですね。近代以降ですけど、やっぱり短歌の進化論みたいな考え方があって、技術的な表現要素みたいなものを、少しずつ取り入れたり変革したり新たなものを付け加えたりして、総体として詩型が進化するみたいな発想があるんだけど、全く信じられなくて、そんなことあるわけないなっていう感じがします。まず、ある言葉が立ち上がって輝きを持つ時っていうのは、必ずその前提として魂がそれに見合ったあるテンションとか色彩とかそういうものを持っているというふうに僕は思うんですよ。和歌に関して言うと、その魂の色が僕にはどうしてもわからないから、要するに磁力と砂鉄の関係みたいなものですけど、砂鉄の部分だけを見ても僕にはわからないんです。言語表現っていうのは、砂鉄の部分しか見えない、磁力は誰にも見えないから。でも、砂鉄の模様を見て、その人の出している磁力がわかる、葛原妙子とか斎藤茂吉とかの場合は。その時だけ初めて技術的にもわかるっていう感じがするんであって、磁力が見えないのに、砂鉄の形が眼で現に見えるから、語彙とか語法が見えるから、何かがわかるとか参考になるっていう感じは全くしないですね。

村井 それ以前のわけのわからなさみたいなものにひかれるっていうことは。

穂村 ひかれますね。だって厖大な蓄積ですからね。それが全然わからないっていうのは不安だし。

村井 ただ、それを無理に勉強してわかろうという気もあまりないですか。

穂村 あります。勉強会をやるとか言って(笑)。入谷さんに、昔の人は何を考えていたのか教えろ、だって君は古事記を専門に勉強してるだろうとか言って。一生懸命教えてくれますけど。

村井 そういう人が同人にいるといいですね(笑)。

穂村 そこまで溯らなくても、個体の体験のわかり方と、自分との隔絶感みたいなのはね、なんで自分が俳句は駄目だっていうことを後追いで確認したようなことがあって、なんかの題詠の時に、僕が作った句があって、それが「春風やパントマイムのナポレオン」っていう句なんですよね。それは自分が短歌をやる時と全く同じ感覚で作った句なんですよ。全く同じ体感で作って、その後に歳時記を見ていて、原石鼎の「秋風や模様の違ふ皿二つ」、あれを見て、もうすべてわかった感じがして、もう絶対俺は俳句なんてやっても通用しないんだっていうことが、もう思い知るような感じで自分の中に入ってきて、これは作風の違いとかそういうものじゃなくて、全然レベルが違うっていう感じがしましたね。
 そのレベルの違いと同時に、すごい直感的にわかったことは、この「秋風や模様の違ふ皿二つ」っていうのを作ったやつは、一度もデニーズとかに入ってハンバーグ定食とかを食ったことがない。そうじゃなきゃこんな句は作れないっていう体感で、俺の句は千回以上デニーズに入った人間の、ハンバーグを千個以上今まで食った人間の句だ。結局食い物とか空気とか、それまでのすべてですよね。すべてがもうそこに現れてしまっていてね、彼は彼、僕は僕、っていうふうに納得して自分をごまかせないジャンルがあると。俳句は僕にとってはそうでしたね。もうこんな句は絶対作れないんだったら、何個こう、「パントマイムのナポレオン」とか減らず口を叩いたところで無駄なんだって。
 要するに短歌って言ったって、僕が書いてるのは、「頓知小僧の減らず口」みたいなところがすごくあるでしょ。あとはその「頓知小僧性」とか「減らず口性」にどれだけ本当に賭けられるか、本当に自分には頓知と減らず口しかないっていうことに賭けるしかないわけで。それで賭けても駄目なエリアがあるっていうことがこの時わかった気がしましたね。今でもたまになんかの時に俳句を作るときに、自分が使おうとしているその言葉で歳時記を開くでしょう。そうすると、その中に必ず、こんなの絶対及ばないと思うような例句があるんですよ。前、「風鈴」でやろうとした時も、「業苦呼起す未明の風鈴は」っていう波郷の句があって、それを見た時もすごいショックで、もう「風鈴」で作る気がしなくなって。あっ、この業苦っていうのは、たぶん本当にこいつは病気とかなんとかの歴史っていうのかな、その体感をめちゃくちゃ背負ってるなっていう感じがひしひしとして、別に「風鈴」が業苦になること自体異常だから、俺はもっと優しい甘やかな風鈴をやればいいんだけど、でもなんかそれをさせないものが俳句にはあるっていうか。なんかそう思っちゃうんですよね。

寺澤 歳時記にそんなに名句があるかな。

肩甲 一雄さん、いつも歳時記開いてさ、ろくなのないとか言ってない?

寺澤 なんか、自分の好みに合わないのは全部駄目だから。だいたい歳時記に載ってる句って好みに合わないから。それに、こんなのにはかなわないな、なんて思ったことない。ただ、違うんだぞ、とは思うけど。

穂村 どうしても、違いとして入ってこないんですね。

肩甲 かなうかなわないか、となるのね。

村井 でもそれって、当然のことながら穂村さんは歌人だから、歌に対してはそう思ったって作るわけでしょ。

穂村 だから、今の話は本当の意味では歌に対してはそう思わないから作るんですよ。それがおかしいと思うんだけど。確かにすごい歌はいっぱいあるんだよ。でも別に俺の減らず口は俺の減らず口だから、って思えるんですよ。それが俳句はなぜか思えない。

村井 寺澤さんがそう思わないのは、寺澤さんが俳句を作るからなんですよね。

穂村 たぶんね、でもね、そこではキーポイントがあって、「春風や」と「秋風や」とか、「風鈴」とか、その、物でどうしても比較するじゃないですか。俺もこれをやろうとしてる、かたや同じ言葉を使ったこういう句がある、それがどうしても同一のように入ってきてしまう。短歌だと同じ言葉が入ってても、あんたの風鈴はあんたの風鈴、俺の風鈴は俺の風鈴、って思うんだ、でも俳句は思えないんだ。

村井 それはおもしろい話だよね、考えてみれば。なぜそうなのかってすごくおもしろい。

寺澤 自由度が少ないからね。

村井 俳句が? まあ言葉の数は少ないですね。短歌って自由度が高いものだと思いますか?

穂村 そうですね。やっぱりわがままさが通用すると思うんですよ。「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」とかいったって、あれだって名歌ですからね。有無をも言わせぬ。でも、あんな歌ばっかじゃないっていうか、あんな歌は他にはないでしょ。でもあれはやっぱり名歌だと思いません?

村井 そう言われてみると、短歌と俳句の自由度の違いってものすごく大きいのかもしれないね。
 またちょっと話はずれますけれど、さっき磁石の話で、ここに磁力があって、砂鉄があるんだと。砂鉄だけ見て、磁力がわかんないのに模様だけ見てもしょうがないという。いわゆる「技術」と、「ソウル」っていうのかな、作る主体の持ってるテンションとかね、みたいな問題なんだけど。そういうのって、歌を作るにはこういうテクニックがありますよ、っていう意味での技術論と違って、また非常に大事な技術論足り得ると思うんだけど。

穂村 確かに現に書かれたものがすべてですよね。現に言葉になったものがすべてだから、必ずそれについて語るしかないし、それ以外のものを語ろうとしてはいけないんだと思うんですよね、全くその通りなんだけど。ただ、現に自分が言葉を出して行く生成の現場で自分の中に感じる体感っていうのがあるでしょ。それがさ、この間も漫画家の人と喋ったんだけど、漫画家だったら、既に身につけたデッサン力とか構図とか、画力みたいなものっていうのは、もうある程度の技術だから絶対なくならないですよね、とりあえず。必ずある。で、言葉を使う歌人なら歌人で、ある修辞力みたいなもの、比喩の力みたいなものは、まあなくならないですよね。だけど、そっちから、つまりドミノ倒しで必ず一方からしか倒れないみたいに、画力から、あるいは修辞から、一種の歌なりひとつの作品を立ち上げるっていうことはやっぱりできないと思うんですよね。やっぱり始めにあるのは「さみしくて気が狂いそう」とか、そっちなんですよ。非常に乱暴な言い方になるんだけど、やっぱり僕は、さみしくて気が狂いそうな火の玉のようなやつがいれば、ほとんど何のテクニックもなくても、いい歌はやっぱり書けちゃうだろうと思う。俳句はわかんないですよ。短歌に関しては、まずそうだろうと思う。むしろ自分の実感として、本当に自分がさみしくて気が狂いそうな時は、自分がそれまで持ってた修辞力とかは溶けちゃうんですよ。で、新たにその場で生成しますよ、その場一回限りの比喩や、一回限りの言葉との出会いみたいなもの。だから、非常に語るのが難しい。一回限りのものができたとたんに、できた側からしか見えないから。でも、自分の中にあって、本当にその歌を生み出した時の意味っていうのは、その生成の感じですよね。

村井 短歌と俳句の違いっていうこともあるのかもしれないけど、書かれたものを生み出すモチベーションみたいなものにはいろいろあると思うんだけども、例えば習慣で作る、なんていうことは絶対ないですか。

穂村 習慣っていうのは、締め切りがあるからとかいうのは習慣ですか。

村井 それはちょっと違いますね。というか、例えば俳人が句日記みたいなものをやるとするじゃないですか。一日一句作るとか二句作るとか。あれはさみしくて気が狂いそうで作ってる人だけじゃない。むしろそうじゃない人が多い、おそらくね。できてきたものを見て、そうかそうじゃないかの判定は極めて難しいっていうことが、俳句の場合あるような気がするんですけど。

穂村 さっきの、言葉の修辞から立ち上げるのとは、またそれはちょっと違いますよ。現に書くという行為から立ち上げるってことですよね。それはある程度有効だと思う。でもそれもかなりタイプに因ってるなあと思っていて、そういうふうにしてかなりいい歌を作る人もたくさんいますね。でも、それもやっぱりタイプですね。内的な、どれぐらい方向性がこっちからばーっと倒れていかないと駄目かっていう、タイプに因る。ただ、それはやった方がいいと思いますね。何が何でも作る、必ず連続的に、今この瞬間も、いつも作っていた方がいいんじゃないかなという感じはします。

村井 それは数多く作ると慣れるとかっていうことではなくて。

穂村 そうじゃなくて、どっちみち普通に生きてるだけじゃもたないんじゃないかっていう感じですね、それは。

村井 例えば具体的に歌を作るという時に、いちばん最初にあるものって何か、これはさっき言った話にも通じるんだけど。穂村さんの場合、じゃあ今から歌を作ろうとするとどうやって作るんですか?

穂村 例えば、今じゃあこの場で歌を作りましょうっていうことになった時、やっぱり反射的になんか題決めませんかって言いそうになりますね。僕のタイプとしてはね。

村井 その場合の題っていうのは、どんな役割を果たしてるんでしょう。

穂村 しょせん、本当のそれじゃないんですよ、つまり僕にとっては。さっきの「パントマイムのナポレオン」がそのまんまなんだけど、「パントマイムのナポレオン」ってナポレオンじゃないから、別に僕はパントマイムつけなくたって、ナポレオンって書いたって、僕のナポレオンはナポレオンじゃなくて、自分がさみしくて気が狂いそうとか、それがナポレオンになってるだけだから、題がなんであっても別に関係ないと思うんですね。ただ、その一種のスプリングボードとして、あった方がいいのかなあ。
 あと、もうちょっと具体的に言うと、実際あることだろうけど、題詠の恩恵みたいなものっていうかな、普段自分が使わないような言葉を入れることによって、その回りに、違う、使わない筋肉で言葉を結晶する、使わないエリアで言葉を結晶するようなのがありますよね。やっぱり普段の自分の慣れみたいなのがあるから、さみしくて気が狂いそうとか言っても、たいてい同じところにボールを投げちゃうんですよね、何度も何度も。もう何度も投げたところに。だから無理に流し打ちをしろとか、バントしろとか、そういうのがあると有効なのかな。

村井 当然、歌会とか句会で題が出てるってことばかりじゃなくて、ひとりで作ることが多いんでしょうけど、その場合も題を仮想してますか。題っていうのかな、何かひとつのもの、言葉、単語。

穂村 どっちかっていうとそういうタイプだと思いますね。何かなんとなく考えてるんだと思います。でも難しく
て、自分に見えないところにあるものを掴もうとする感じにかなり近い。枕元の目覚まし時計を手探りで探るような感じで、核になるものを掴もうとしているから、題を決めようって言った時、自分からは言い出したくないですね。人に、自分が一度も考えたことのないような言葉をもらって、そこへ「さみしくて気が狂いそう」を投げ込んで、異様なものを作ろうみたいな感覚。でも見ればわかるでしょう、俺の書いてるのを。まさにそういう感じ。

村井 吟行っていうのは短歌じゃやらないんでしょうか。

穂村 やりますよ。

村井 そういう時はどうやって作るんですか。みなさんやっぱりそのへん見て歩いて、こうやって手帳とかに書いて、あとで発表するんですか。

穂村 あれも本当は、例えば写生のなんかで言えば、さっきの「模様の違ふ皿二つ」的に入って行かなくちゃいけないっていうのが、そもそもの吟行なんだと思うけど、やっぱり僕なんかにとっては、ただ題がふわふわそのへんにあるだけですよね。眼で見たって別に映っちゃいない。入谷 いつも穂村さんは吟行に行くとじーっと座ってどこも行かないですよね。なんか吟行の意味が全然ないなって(笑)。

村井 作ってる場所が違ってるというだけじゃないですか(笑)。

穂村 邪道です。でも、もともと邪道だから、それは別にその場で邪道になったわけじゃない(笑)。

村井 例えば単語としての題なり、吟行だって題を見つけてるようなものですよね、であった時に、それを作品にまとめる時にいろんな頭の中の操作っていうのはね、毎回毎回違う操作を当然してると思うんだけど、それをひとつの作品にまとめる時に、例えばこういう操作をしてるなんていう話はできますか。

穂村 適切な具体例が思いつかないなあ。ただ、感覚的には、やっぱり分散してチップを置かないようにまず考えるんですよ。チップを置ける場所は一カ所だって必ず思う。五七五七七ってけっこう長いから、二カ所ぐらいに置けるんですよ、チップがね。でも当たったら半分、それはね、絶対持たないっていうことを体験的に知ってるから、一カ所、たとえ外れてもここに自分はチップを置くっていうことをまず絶対決める。それもさあ、ほとんど同じ所に置くんだよね、僕はいつも。「お前が欲しい」とかさ、「さみしくて気が狂いそう」とか、全部、ほとんど同じですよ、それって。「お前が欲しい」と「さみしくて気が狂いそう」って同じ場所だから(笑)。だからそれはもう決まってると言ってもいいんだけど、でも一応、そこに置くんだっていうことをね、肝に銘じるんですよ。一カ所だけに置く、二カ所に分散してはいけない。「お前も欲しい、お前の妹も欲しい」っていうのはいかんと(笑)。
 それでね、いろいろ勇気を出すわけですよ。「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」とか、ああいう馬鹿勇気を持った歌を思い出してね、びびった歌はもう全然駄目って思っていて、びびるのは絶対駄目だ、でもね、そういうふうにすごく思わないと必ずびびるから。必ずびびるし必ず恥を考えるから、恥もいかに恥を忘れるかっていうか、人が読んで、「わっ、なんだこれ」って言うような方向に、チップを置くってそういうことだってこと。いつもいつもものすごく新鮮に考えてないと必ずそれを忘れるんですよね、人間っていうのは。だから、それだけをいつもまず忘れないようにする。そうすると言葉が、つまり五七五七七が、一発でびしって出ることはないんですよ、僕の場合。だからある程度言葉が生成しかけた時に、お前が欲しいみたいなものを、言葉としての自然な生成感に任せていた時に、お前が欲しいがいつのまにか雲散霧消しているケースがすごく多いんですよ。言葉の自動的な機能、言葉としてこれが適切、これとこれがお洒落とか、これとこれが素敵、みたいに、その素敵さに身を任せていると、最初の、こう右翼が短刀を持って人を刺しに行くような感覚が、いつのまにか短刀がなくなって、撫でに行っているっていうことがある。そうしたらそれは駄目だ。そうしたらそこで、一旦言葉が生成しかけちゃうと、部分的に駄目はなかなか出せないから、ほとんど全駄目になります。

村井 例えばそれで、最初と違うものができちゃった時に、これを見て、ああこれはこれでいいじゃん、これはイキっていうことはないんだ。

穂村 思わん思わん。ジャンプ競技があるじゃないですか、スキーの。あれってさ、始めの踏み切りの角度が駄目だったら、いくら空中で修正しようとしても、飛距離なんて伸びない。もう一回上まで上って、もう一回、となりますよね。あの「ああ」っていう瞬間がほぼ九割以上で。だから俺は、飛型点っていうのがあるのがどうしても納得できなくて、形が綺麗だとか言ったって、現に飛べてなきゃ駄目なんじゃないのかお前、っていう感じがするんですね。

村井 例えば、こんなことを書いたらこいつは人非人だと思われるんじゃないかとかね、こいつはひどいやつだと思われるんじゃないかとかね、そういうことは一切考慮しないんでしょうか。

穂村 もちろん考慮しますよ。考慮するっていうか意識はしますけれども。でも、だからそれを書くと。どうせ死ぬんだから、書くと。つまり、いざとなったら人を殺すっていう感覚がないと。必ず人は戦争とか起こす。戦争に行くぐらいだったら、恨みで人を殺した方がいいと。

村井 今のは極端な話だけど、もっと日常的なレベルでっていうのかな。作っている時に、どうしても、二つ選択肢があった時に、こっちの方がわかりやすいだろうとか、こっちの方が綺麗に着地できるだろうとか、そういう選択っていうのはあると思うんだけども、もしかしたらそっちにしたら破綻しちゃうかもしれない。読んでも誰もわかってくれない。でもこっちを書くんだ。そういうこととはまた違うんですか。

穂村 違いますね、その感じとは。破綻にもかなり神経質で、具体的に言うと破調とかにも神経質で、まず五七五七七から、減点法で見るところがあるっていうのかな。ここでリズムを崩す代わりに何が得られるんだとか、ここで字余りになるために得られるものは何なのかとか、失う代わりに何を持てるんだっていうことの計量はやっぱりしますね、すごくね。

村井 伝達性みたいなものをすごく意識してますか。

穂村 します。

村井 それは具体的には誰に対しての伝達性を意識してるんでしょうか。

穂村 誰に対してか…。自分以外のすべての人に対してでしょうね、それは。愛されたいとか受け入れられたいとか、そういう気持ちがすごく強いんですよ。わかりますよね、それ(笑)。でもさ、それすごく普通ですよね。このままの自分を受け入れて欲しいっていう感覚がすごく強いから、このままの自分っていうのは、自分が極端にわがままだったら、それをなるべく示したいわけですよ。でもそれを受け入れて欲しいっていう。

村井 伝達性っていうのは、結局そういう意味での伝達性ですね。

  
「夢をなくさない」ということ

穂村 でもすごく難しいですよね。言葉の問題だから、必ず言葉を媒介にしてるんだけど、でもね、どこかで魂は伝わると思ってるわけ。最近、すごく変な話なんだけど、思うのはね、家でぼーっとしている時ね、例えば広島県とかでね、誰かが夢を失ったと。それまで夢を持っていた人間が夢をなくしたら、なんかわかるような気がするのね(笑)。

村井 それは知ってる人じゃなくてもいいわけですか。

穂村 うん。誰かがね、夢をなくしたやつはわかるような気がして、そうすると怖いわけですよ、自分がそうなるのが。だから、俺だけは今はないものに対する憧れとか夢を絶対なくさないぞって思うわけ。夢さえなくさなければ、みんなわかるに違いない、ってすごい楽天的なの。わかるに違いないっていう感覚はすごくある。だから、歌なんかも特にそうなんだけど、やっぱりわかるんだな。人の歌を読むと、こいつはもう心がお辞儀してるやつだとか、こいつはなんかを曲げてるやつだとか、そういうことが。それって自分がわがままだとか、人格が破綻しているとか、くだらないとかっていうこととはちょっと違っていて、そういうことじゃなくて、一念発起とか、心を保つとかいうことで大丈夫なエリアだと思う。夢をなくさないって思ってればなくさないと俺は思うわけ。夢をなくしてもいいと思ったやつだけが夢をなくすと思ってるわけ。だからいくら俺が、デニーズで千回もハンバーグを食ったとか、女にだらしないとか、そういうことがあっても、それはその場で、びびらずにそれを提示すれば、それはそうだっていうふうにみんなわかっちゃうわけだし、それはだって、そうだからしょうがないじゃん、もうさ。それはそれで。

村井 伝達性に考慮するってそういうことか。ごまかさないっていう意味ですよね。

穂村 そうそう。ごまかすんだったら、そもそも本末転倒なんであって、それやるぐらいなら、始めから短歌なん
てやる理由は全然ない。

村井 それはよくわかります。さっき誰に対して、っていうすごく意地悪なことを聞いたんだけど、読者の想定っていうことをしてますか。つまり誰に向けて書いてるのかみたいなことを考えていますか。もちろん自分が最初に読むわけだけど、作りながら読んでるんだけど、自分以外の他者に向けてももちろん書いてるんですよね。

穂村 もちろんそうです、それは。

村井 例えば、こいつには読んでもらわなくてもいいやとか(笑)。

穂村 そういうの全然思わない。どんなやなやつにも読んで欲しい。それで、今俺が嫌いなやつに俺を愛して欲し
い。でも、嫌いなやつは大抵読めば読むほど俺が嫌いになる(笑)。

村井 非常にきっぱりしてておもしろいなあ。いつも穂村さんと話してて思うんだけど、非常にソウルフルな方なんですよね、今時珍しく。

穂村 でも例えば、短歌とかってすごい些細なことじゃないですか。それでね、それを始める前の自分の体感っていうのが、何もかも怖くて、何もかもやなわけですよ。何もかも怖いっていうのも乱暴だけど、とにかく怖くて思い通りに行かないって感覚があるでしょ。そうすると、その中にすごい微細なものを入れようとする時は、逆に、さっきの本末転倒の話じゃないけど、夢が大事とかっていうのは必然ですよ。もしそこからそういうものを取っちゃったら、何もかも怖いに一気に逆戻りするから。

村井 例えばパズルを作るが如く、歌や句を作ってる人ってけっこう多いんじゃないかっていう気がするんです。つまり、言語を操作するということに快感を感じると。それと、自分のぐじゃぐじゃした何かっていうのを、ある程度切り離す操作っていうのをした上で書いてる人間がいて、できてきたものが必ずしもそれがすべてつまらないわけではなくて、私はそういうふうに作ってますって明言する人間が作ったので、すごくおもしろい句っていっぱいあると思うんですよ。それは単にタイプの違いっていうことなんでしょうか。

穂村 僕は全くそれは肯定しますね。同じことだと思います。つまり、表現上「夢をなくすな」とか、世界に対して順接な表現を僕は割と平気でするからね。恥ずかしげもなく言ってるけど、そのことと自分のぐじゃぐじゃした心を完全に切り離して、完全にパズルとして表現するってことは全く相反しないと思う。その人にとっての夢っていうものがそういう形であることを、全く疑わないな、僕は。平岡正明か誰かが、極真空手に通ってて、あるひとりのファイターのことを、氷のように冷たい戦い方をするっていう書き方をしてたけど、僕、それはすごいわかるっていうか、そういう形のソウルって絶対あると思うから。だから、僕はさっき等身大とか自然体っていうものを信じないって言ったのはそういうことで、等身大とか自然体っていうものだけを信じないんであって、それ以外のどのようなものも夢で有り得ると思うんですよね。

村井 等身大とか自然体を信じないっていうのは、非常に意味が広いわけですけどね、例えば言語表現っていうのは等身大にはなり得ないわけですよね、当然。自然体にもおそらくなり得ない、ある操作、言語化の操作が加わってるわけですから。例えば私は自然体で俳句を作ってますとか、短歌の人はそういうこと言わないかもしれないけど、そういうようなことを言う人も俳人にはいそうだな。そういう認識自体を信じないということでしょうか。

穂村 その認識を信じない。例えば、前もちょっと書いたことがあるんだけど、吉川宏志君っていう、すごくいい歌を作る若い歌人がいるんだけど、歌集の後書きで、自分がある時、少年の時だったかな、夜明けの蝉が脱皮する様子を見たことがあって、あの感じが忘れられないということを書いてたんだけど、僕はそれは本当だと思うのね、それがすごく印象深かったってことは。でもさ、歌集の後書きにそれを書くっていう、その心がどうもなんかピンとこないって言うか、要するに僕はそのことに否定的なんだけど、そう書かれた時、誰がそれを否定できるんだ、って思うわけ。ああ、あの時生命が誕生したっていうのを、歌集の後書きに書かれて、誰が、そんなものくだらないって言えるんだ、と。そんなこと書くやつはくだらないって、誰も言わないなら俺が言ってやるぜ。
 あと、妊娠してこの三年間の歌を集めましたと。その三年間は妊娠出産期に当たっていてね、お腹の中に子供がいて、台所の窓から見た木々の緑がすげえ綺麗だったとかいう後書きがあるんだ。そんなのくだらないって誰が言えるんだって思うでしょ。だって本当だと思うもん、それは。でも、それが本当なのとそれがくだらないのは両立するよね。
 さっきのパズルの話もそれと同じで、そういう形の夢が存在することは認めるけど、違う、俺が考える夢は全然違うね、そんなのは、っていう感じがするわけですよ。それだって夢で有り得るんだけど、そういうふうに書くことによって、非常に夢というものを危うくするような感じがするっていうか。前登志夫っていう歌人がいてね、第一句集のタイトルは『子午線の繭』っていうすごくいいタイトルなんだな。そこには夢があるでしょう。ところがある時から山に籠もって、なんか吉野の山神とか言って、自然のアニミズムがどうしたとかって言い始めて、一気に順接になっちゃてさ、世界に対して。夢がなくなっちゃったんだよ。動物や木々の心がわかるなんて、夢でも何でもないんであって、そういう問題じゃない。木々の心もわかるだろうけど、それは夢じゃないって俺は思うのね。
 同じようなもので、でもこれは夢だなって思ったのは、西村寿行っていう作家がいて、僕そんなに好きな作家じゃないんだけど、何とかの鯱シリーズっていうのがあって、みんなが犯罪をやったり、やりたい放題やったりするんだよね、女を犯したりとかさ。そういう傍若無人な何人組かがいて、そいつらがなんかの時に山に入るんだよ、ひとりずつ。でさ、ひとりずつ動物と話ができるようになるの、心の会話ができるように。それぞれいろんな契機で。そいつら女を犯したりとかめちゃくちゃやるんだけど、動物と話ができるようになる。そういう悪いやつっていうか、めちゃくちゃなやつの中のひとりが、最後まで動物と話が自分だけできない。で、すげえあせるの、俺だけが動物と話ができない。で、ある時なんかのきっかけで、急に眼の前にいた動物の心がわかるんだ。そうすると、涙を流して、やった、俺は仲間外れじゃなくなった、みたいに思う。それは夢だと思う。

肩甲 僕も、お話なんかで、長老が少年の眼を見てね、お前は澄んだいい眼をしているとか、そういう言葉が信じられなくて。死んだ魚のような眼をしてても、すごい信用されるに足る何かを持ってることだってあるじゃないかと。

穂村 まあね。

肩甲 だから、女は犯すが、動物と話ができるっていうのはありだろうっていうのは、すごいわかるなあ。

植松 それで一念発起が上につくというのが怖い。

穂村 でも、一瞬一瞬の一念発起以外に人間にできることってないんじゃないのかっていうことなんですよ。

植松 それは正論だなと思うんですが。

穂村 いちばん大事なものから順番に考えたいっていう気持ちがあって、三番目とか四番目だとかをまず考えたくないっていう。いちばん生きて行く上で大事なことから考えて行きたい。でもわかんないんだ、何が大事かって。別に短歌の中にもいちばん大事なものはあるし、お料理の中にもあるし、サッカーの中にもあるって、それはもちろんあるんだな。で、それぞれのやってることが全然ばらばらでも、やっぱり夢のあるやつと夢のないやつがいて、そうするとやっぱり夢みたいなことになる。今は存在しないものに対する憧れみたいなもの。今は存在しないものに対する憧れを持とうとすると、気が狂いそうになるんだ、必ず。で、今は存在しないものに対する憧れはあるけど、気は狂いそうじゃないっていうやつを信用しないんだよね。
 でもね、そういうふうに思ってても、そういう次元ではいくらでも自分を鼓舞したことが言えるけど、現実問題、じゃあ次のひとつの歌を作る時、どういう手法があるんだとか、次の女との関係をどういうふうに素晴らしくできるんだとか、友達との友情をどういうふうにできるのかとかね。だから、気持ちはあるんだ、もっと仲良くなりたいっていう気持ちがいつも。でもさ、それが、どういうふうにその人に対して働きかければいいかということはわからないんだけど、そのわからないってことと夢みたいなものはやっぱり関係してるんじゃないのかと思う。もしわかるんなら夢はないと思う。次の瞬間自分がどんなことでもできて、その中に潜在的には素晴らしい行いや素晴らしい作品があるにも関わらず、大抵すげえ凡庸なことを言ってしまって、大抵くだらない作品を書いてしまうことの連続ですよね、体感としては。でもそのことと夢っていうのはすごい関わっているような気がするんですよね。
 自分の好きなバンドがあるでしょ。そういうところのボーカリストっていうのは、何回も、百回も千回も同じ歌を歌ってるじゃん。でもさ、必ずスーパースターっていうのは、その次の、今から歌う一回を今までに一度もなかったほど素晴らしいものとして、素晴らしいっていうのとも違うけど、今までに一回もそのようには歌わなかったものとして、この世に一度も存在しなかったものとして、歌おうとしてますよね。眼がもうそう言ってるし、そして大抵失敗するんだ、それは。だって千回歌ってるのに、その千回の中で、次歌う一回が最高である可能性がすごい低いもんね。失敗するんだけど、でもわかるんだ、それをやろうとしたっていうことは。それがやっぱり感動するっていうか。
 そのためのテクニックっていうかね。例えば僕、ブルーハーツが好きだったんだけど、いろんな変なことをやってたよね、見に行くとさ。すげえくだらねえなと思ったのは、「次は何とか」とか言って曲名を言って、違う曲を歌い出すとかさ(笑)。もう、すげえ小細工なんだ、でもわかるんだよ、何がやりたいか。わかるよ、俺、それは。失敗するんだけどね。あと、歌い始めてさ、急に歌い止めたりして、靴紐を結び直したりするんだ。歌う前に靴を履き替えたりして、途中でね。失敗するんだ、絶対。でもすげえわかる、その感じっていうのが。その時の伝達の感じっていうのも、魂が伝わるっていうか、巨大な火炎球を投げ付けられたような感じがして、その前に、どのような揶揄もないっていう感じ。それを揶揄するスタンスは、もう有り得ない。

村井 それはさっきの話と非常にうまく繋がって得心が行くのね。絶対にびびるな、手段を選ぶなとかね。

穂村 でね、そういう時のステージ上のミュージシャンの体感とかってさ、さっき言ったあるすごいテンションになってるから、言葉がすごいんだ、もうMCが、途中で喋る。歌じゃなくてさ。前に聴きに行った時とかもさ、曲の間に急にボーカリストが「斉藤由貴ちゃん、斉藤由貴ちゃん」とかって言い始めて、「恋はいいぞう」とかいって言うんだな。そういう感じとか。あと、遅刻して来たミュージシャンがいて、「今日ここへ来る途中で環八をずっと走って来たんだけどね」って言うんだよね。まあ一種の言い訳なんだ、遅れた。「環八が急になくなっちゃったんだ」とか言うんだよな(笑)。これ、忌野清志郎なんだけども。何言ってるんだか全然わかんないんだけど、めちゃくちゃ感動する。
 あとね、テレビに清志郎が出てた時があって、これも細かい話なんだけど、歌ってたんだよね。シャツ着てて、ジャケット着てて、なんかの時にシャツの襟が半分だけジャケットの外に出ちゃって、半分隠れちゃったことがあったんだな。なんか見てるとすごいはらはらするんだ。夢が負けそうだ、みたいな感じで、シャツの襟が夢が負けそうな象徴のように見える。絶対気づいてないよ、あれはっていう、はっきりわかるんだ気づいてないことが。こっちは、「襟を出せ、襟を出せ、そっちの襟を出せ」って思いながら見てる。そしたら、清志郎が途中で急にジャケットを脱いだんだなあ。その時の眼も眩むような感動。シャツの襟を出せって思ってるのに、急にジャケットを脱がれてしまう。あれ、気づいたか気づかないかわからない。たぶん気づいてなくてやったんだろうと思うけど、その時の魂を手渡された感じ。よし、俺も頑張るよ、明日からみたいな(笑)。

村井 ライブパフォーマーっていうのはそういう点でいいよね。

穂村 もし心腐ったらその場でみんなにわかっちゃうから、逆に言うと、だから追随を許さないんですよ。心腐ったらその場でわかるジャンルっていうのは、腐ってない時の輝きっていうのはもう。

村井 すごいよね。穂村さんが短歌を書いている時の様子は、我々は見ないから、襟出せとか言えないものね(笑)。その違いは大きいよね。怖いジャンルですよね。

穂村 だって短歌なんて、すごいと思うやつと一緒に作品並べて見劣りしても、まあやだけど別に平気だけど、もしステージ上で自分の前に忌野清志郎とか甲本ヒロトが立って、巨大な火炎球を客席に向かって投げてしまったら、その後、「はいじゃあ終わりました」って言って、「次はあなたの番です」って言われて、立てますか? ステージ上に。立てませんよね、絶対ね。だから俺立つだけでもすごいと思う。前、広島でブルーハーツとRCサクセションが同じステージに順番に立つっていうのを見に行った時があって、甲本ヒロトがすごかったんですよ、もう本当に痺れるようなステージの後で、その後に清志郎が出て来る時、すごい緊張とすごい期待があるんですよ。どうやってこの後出て来るんだ。でもやっぱりね、最初からすごい名曲を持って来ましたね。普段最初からこの曲はやらない曲で入って来たですね。村井 確かに人前の稼業っていうのはそうだよね。露骨にわかっちゃうから怖いよね。穂村 そうするとさ、ああいうところに行くと客の平均年齢が十五歳ぐらいだったりしてさ、半分以下なんですよね、俺なんかのさ。でもさ、見終わった後の感想とかは、何とかっていう曲名を言ってさ、「<TOO MUCH PAIN>、きたよな」とか言って、俺の感想も同じなんだよ(笑)。「俺もきたよ」、みたいな感じで(笑)。他に言葉がもうないっていう。その、こっちを棒立ちにさせてしまう感じ。

   
誰に向けて発信するのか

入谷 穂村さんが歌のことを言う時に、よく、最後にブルーハーツの話が出るんですけど、自分の表現っていうことを言う時に、そういう一対他のステージっていうのが必ず出るっていうのが穂村さんっぽくておもしろいなって。そういうステージみたいなことをみんな思って歌を作っているかなっていうと、まあ少ない気がする。日記をつけるみたいにだったり、自分に語りかけるようだったりとか、いろいろでしょ、イメージするものって。穂村さんにとって短歌を作るっていうのはそういうことなんだなあって、さっきどういう読者をイメージするかっていう時に、イメージしないっておっしゃってたけど、ステージだったらどんな人が来るか全然わからないし、なんかそういう感じなんだろうなって。

穂村 でも俺の感覚って自然じゃないですか、ある意味で。自分ってすごく自分で、自然に一対他のところで強烈にラインが引かれますよ。ただ、人によって、男女でラインを強く意識する人とかいるけど、俺は圧倒的に自分とそれ以外っていうところですごいラインがあるんですね。入谷 でも、よくあるのは例えばすごく尊敬する歌人とか、先輩とか、それが同時代の人じゃなくてもいいんだけれども、自分の作品はすべて誰々へのラブレターだとか、恋文だとか、そういう作り方で作る人が多いですよね。

村井 特定の人に対する。

入谷 そうそう。だから、後の人がついてくるかどうかはどうでもいいって。藤井貞和はよく、自分の作品はすべて秋山虔へのラブレターだって言ってるんですけど、そういう感じも多いんじゃないかな。私は割とそういうタイプですね。どうでしょう、違いますか?

植松 学生の頃カードに書いてすぐ見せるとかいうのも、ステージと感覚的に近いのかな。

入谷 横にいるのは誰でもいい感覚なのかな。

穂村 やっぱりさっきの、十五歳ぐらいの小僧が「<TOO MUCH PAIN>、きたよな」とか言ってるのと、俺も「うん、きたな」っていう感じ。棒立ちにされる感覚っていうのが受け手の側としては自分があるから、たぶんそれの裏返しなんじゃないのかな。

入谷 俳句だったら、どうしても連衆を意識して、連衆の好みに流されますよね。

寺澤 そんなことないよ。

入谷 そうですか? でも、合ってない結社で作り続けることはできないじゃないですか。

寺澤 そういう話じゃなくてね、常にそういうことを意識してやってるかっていうと、みんなそうかもしれないけど、俺はあんまり、そういうことはなるべく考えないようにしてるけどな。

入谷 これを出したら恒信風のこいつは採るんじゃないかとか受けるんじゃないかとか思わない?

寺澤 まあ、ちょっとはあるけどね、でも、もっと別のことを考えたいな、それを計算するよりは。

入谷 それはそうなんだろうけれども。例えば、違うグループの中で一雄さんの俳句を見ると、恒信風の中で見るのと違って見えるし。句会って、なんかそういうところがないですか。

寺澤 好みがあるからなあ、どうしても人間っていうのは。

入谷 連衆を突き抜けて、始めから不特定多数に向けて句会に出すっていうのは難しいんじゃないでしょうか。

寺澤 基本的にはそこを目指して行かなくちゃいけないんじゃないかなあ。常に連衆なんてことを頭に置いて俳句を作ってもしょうがないような気がするんだけど。

穂村 なんかこう、割に合わないような気がするんですよね、そうすると。元々コントロール利かないタイプだからな、俺。どこでやっても同じっていう。

入谷 私は連衆とか特定の人じゃなくって、不特定多数の人に向けてやって行かなきゃいけないっていうふうには思わないし、そっちの方がいい姿勢だというふうにあんまり思わないですね。自分が非常に信頼を置く誰かにわかってもらいたい。それ以外の人がわかってもわからなくてもそれはかまわないっていうような感覚はあるんですけど。そうじゃなくって、自分がその人のことを理解もしてなければ、これから先、関わることもないだろう不特定多数にわかってもらいたいと思って俳句を作るんですか。

寺澤 そんなことも考えたこともないけどね。不特定多数に発信してるとか、誰々に対して発信するみたいな感じもないけど。僕が目指すところは、やっぱり不特定多数の方を選びたいなと思ってるんだけど。できたものでしか言えないけど。

穂村 やっぱりどこかで誰かが夢をなくすとわかるっていう感覚っていうのも、その不特定多数性と関係してるような気がするな。自分の体感としてはそういうのあるなあ。

入谷 つまり、例えば道行く人も振り返るような、全然読もうとしてない人までも振り向かせるようなもの。

穂村 そういう欲望はありますね、すごく。

村井 積極的にみんなにわかってもらおうっていうのとは、またこれは別の話でしょう。自分をぱっと、なんの妥協もせずに出して、それでみんながすげえと思ったらそれはすごくうれしいけど、だけどそのために何かを曲げることは絶対しないぞっていうことでしょ、そうじゃないとね。例えば、この人には読んでもらいたいっていう人、この人にだけ読んでもらいたいっていう人に書いて、読者が百万人ついたら迷惑だなっていうことになるんでしょうか。入谷 でも、他の人が褒めてくれればそれはいいでしょうけど、穂村さんの話を聞いていつも不思議に思うのは、自分が嫌いな人であってもどういう人であっても読んで褒めてくれればうれしいっていうの。私だったら例えばこの人に褒められたらかえって嫌だとか、失敗したなとか。

寺澤 そこまで言うか(笑)。

肩甲 なんかロックやろうとは思わなかったんですか。だって、ロックの方が手っ取り早いじゃないですか。

穂村 だから、思い知ったっていうか。

肩甲 俳句の時の思い知るのみたいに。

穂村 そんな思い知り方の比じゃないですよ、もう俺の魂は通用しないっていうか。そんなところではもう通用しない。通用しないと思うことが通用しないのかもしれないけど、とにかくもう、そんなふうにはできないっていうのかなあ。

肩甲 そんなんだよな。そこでがっかりすることはないんだけどさ。

穂村 でもありますよね、他のジャンルやってる人でも、音楽は違う、なかんずくロックは違うっていう発想はやっぱりあるんであって。

肩甲 それはすごく思う。それはしょうがない。清志郎にしてもヒロトにしても、一対他というような思索なりしてるのかなあという。それはだから、短歌の人が必ずしも一対他ではなくて、特定の誰某にっていうのと同じように、ヒロトとかも作ってるんじゃないかなという気もするんだけど。

穂村 清志郎なんかはそうだよね。客席の誰かに向かって歌うとかいう感覚も、現にそういう言及もあるから。

入谷 でも誰かに向かって歌ってるんだっていっても、そのステージ全体の中でものすごく火の玉のように輝いていてないといけないわけですよね、求心力を持って。誰も彼もがそんなふうに自分がひとりが輝いていようと思って表現してるわけではないでしょう、空間の中で。

肩甲 それはそうですね。

村井 自分が、その人がどう思ってるっていうことは、実はあんまり関係ないんだよね、おそらく。否応なしにそうなっちゃう人間と、そうじゃない人間がいるっていうことの方が大きいような気がするんですよね、なんか。ぽんとここにいるだけで、いて何かやってるだけで、その人がなんにも考えてなくても、やっぱりとんでもない吸引力があるというのは、それは天才だものね。才能だものね。

肩甲 でも、穂村さんは何かに打ちのめされる度合が、常人より多いような気がする。この間、立ち食いそば屋に入って、卵なんとかそばを頼んで、食べてたら隣に後からやって来た人が、かけそばにいなりずしを頼んだんで、負けたと思った、っていうエピソードを穂村さんに聞いたでしょ。本当は別にそこに勝ち負けは発生してないんだけれども、負けたっていう言い方も別に本当の負けではないんだろうけれども。

穂村 やっぱりそれがさ、そば注文するにも魂を試される感じがしてさ、なんか自分の魂の偽物性がその時暴かれたような感覚になるわけだよね。

肩甲 僕は、普通は自分がそれを食べてても、その隣にいる人の魂に気づかないところを、気づいて、「負けた」って思えるのが、すごい才能のようなところだなと思って。太宰の『人間失格』についてこの間「ユリイカ」に載せてた文章も、なんか自分だけ夏服とか冬服に着替えるのが一瞬遅れるっていう、そういうことに自覚的になれるっていうのは、すごい才能なんだろうなって。

穂村 でも喋ったり書いたりすれば、みんな怪訝には思わないから、やっぱりあるんじゃないですか。だって、説明を要することなんてほとんどないですよ、そのそば屋の話でも。俺はいか天玉うどんを食ってたんですよ。これがさ、いかにも魂の腐ったやつだなあという気がして、いか天玉うどんを食うならもっといい食い物屋に行けばいいんであって、立ち食いそば屋でいか天玉うどんを食うこの心が、まさに「パントマイムのナポレオン」と「模様の違ふ皿二つ」で、がちょーんってなったのと全く同じ感じで。でもそうなんだからしょうがないっていう。人間とっかえられるなら、俺だってもっと荒々しくて鮮烈な人間になりたいけど、そうじゃないわけで。だから、「菓子パンオナニー小僧」と自分のことを呼んでいるんだけど(笑)。まさに「菓子パンオナニー小僧」の体感なんだよね、俺の体感っていうのはさ。

植松 ちなみに「勝った」と思えた時っていうのはどんな時ですか。

穂村 勝つことなんてねえよ。勝つことなんかないよ、全然。勝つことなんかないから、なんかものを書こうとかいう発想になるんであってさ。
     (一九九八年七月  新宿にて)

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