書評 村井康司『ジャズの明日へ』

                      遠藤 治

 「恒信風」初代編集長・村井康司は、ジャズ批評家として俳歴の倍くらいの長いキャリアを持っている。「ジャズライフ」「ジャズ批評」「スイングジャーナル」などに精力的に書かれた鋭い論考が「コンテンポラリー・ジャズの歴史」という副題の下にまとめられ、このほど第一評論集として上梓された。

 私たち(村井康司も私も一九五八年生まれ)がジャズを聴き始めた年齢の頃、すでにジャズの行方は誰にも分からなかった。女性ヴォーカルとスパニッシュ・フレーバーの軽快なリズムをフィーチャーしたカモメのジャケットのレコードとか、うなりながら叙情的なソロ・ピアノを弾く横顔の白黒写真のジャケットのレコードが一世風靡した頃だ。その頃「モダン・ジャズの歴史」という本を著したある日本人評論家は「『ビッチェズ・ブリュー』でジャズは終わった」とまで書いた。しかし無論、ジャズは終わらなかった。

 「ジャズの明日へ」では、その頃ジャズを聴き始めた著者がタイムマシンを駆使し、六十年代ジャズ、七十年代ジャズ、八十年代以降のジャズを、それぞれ徹底的に俯瞰して見せてくれる。ある価値観で評価できる時代はすでに終わっている。神話崩壊後のジャズについて、著者はポピュラー音楽全体の中でジャズを位置づけ直すことにより考察する。

 と書くと、未読の方に何か頭でっかちな印象を与えてしまうかもしれない。そうではない。村井康司は批評家である前に演奏者である。アマチュア・ビッグバンドの主宰者として伝統的なフォーマットの枠内できちんと音楽を組織する一方で、ギタリストとしてもビバップからアヴァンギャルドまで幅広くこなす豊かな音楽性を持っている。そして、これは特筆すべきことであるが、村井康司は演奏者である以前に鑑賞者である。演奏者にして批評家である場合、音楽用語を必要以上に羅列したり、何よりも演奏者にしか分からないような些末なことで却って審美眼が曇ってしまうことが往々にしてあるが、この著者はそうではない。鑑賞者として「美しい」と感じたことを徹底的に分析し、それから他の表現者との関係の中で位置づける。多くの読者は村井康司の文章を読んで、「よくぞ言ってくれた」と思うはずだ。今まで聴き手としてずっと感じていたけれども何だかよく分からなかった「あの感じ」に言葉が与えられる喜び。驚き。それが、村井康司の方法である。もしあなたがジャズの聴き手でなかったとしても、「『真神』を読む」の読者ならこの辺の機微を理解して頂けることと思う。

 さて、コンテンポラリージャズの歴史と現代俳句の歴史は、くらくらするほど似ている。山口誓子が「天狼」を創刊したのは一九四八年であるが、その頃ジャズの世界ではチャーリー・パーカーが決定的な演奏を行っていた。三鬼によれば「今日、名のある俳人は、常に誓子俳句を目標として成長し、或は誓子俳句に影響を受けざらん事に努めて成長した」とのことであるが、これはコンテンポラリージャズの歴史におけるチャーリー・パーカーの位置づけとまったく同じである。前衛俳句全盛の頃、ジャズも前衛であった。高柳重信を慣例に従い「じゅうしん」と発音する時、私は音韻的な類似だけでなくジョン・コルトレーンと同じ重さを感じる。時代が下り、ジャズ界にウィントン・マルサリスが登場した頃、俳句界には岸本尚毅が現れた。いずれも先人の方法論を集大成して身につけた新しいタイプの表現者である。

 「ジャズの明日へ」を読んでいると、これはそのまま「俳句の明日へ」でもあるのではないかと思う。

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