村井康司
『真神』(まがみ、ではなく「まかみ」と読むようだ)は、三橋敏雄の第二句集。昭和40年から同48年にかけて書かれた130句を集めて、48年10月に端渓社から発行された。
三橋敏雄(1920〜)の評価を決定づけただけではなく、昭和俳句史の中でも屈指の名作として輝くこの句集について、あるいは『真神』の達成から照射される昭和末期の俳句状況については、多数の注目すべき論考が書かれている(*注1)。
この連載は、それらの成果を参照しつつ、『真神』に収録されたすべての句を、あくまでもそこに書かれたことばに即して「読む」ことによって、なぜこの句集の俳句群が「わたし」を、「われわれ」を魅了するのか、を解明するための個人的なとっかかりとして書き続けられることになるだろう。
1 昭和衰へ馬の音する夕かな
2 鬼赤く戦争はまだつづくなり
3 鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中
4 母ぐるみ胎児多しや擬砲音
「恒信風の俳句・原稿」にもどる
巻頭の句は、不吉な、しかし甘美な追憶をはらんだ「予言」だ。「しょうわおとろえ・うまのおとする・ゆうべかな」という七・七・五の変則的リズムは、字余りによって「昭和衰へ」というショッキングな断定をさらに印象的なものとする効果をあげている。さらに「おとろえ/おとする」と、上中の4・5音めを押韻させて調べを音楽的で無理のないものにする技術といい、音韻的にも意味としても「重い」前半を「夕かな」であっさりと受ける抑制力といい、時代の象徴として語られることの多いこの句は、実はきわめてテクニカルな配慮に支えられたものであるのだ。
意味的に関連する「衰へ」と「夕」の狭間から聞こえてくる「馬の音」は、もちろん戦前の霧の彼方から昭和末期に向けて響いてくる、懐かしくも恐ろしい音なのだろう。この
「馬の音(うまのおと)」というフレーズについては、三橋自身が、「万葉集・巻十一」の「馬の音のとどともすれば松陰に出でてそ見つるけだし君かと(2653)」を遠望した由を書いているが(『現代俳句全集 四』の「自作ノート」)、「……の音する」というやや舌たらずでざっくばらんな言い方は、たとえば「相撲取の腹の音する西瓜かな 越蘭」(注*2)のような、近世俳諧の軽妙さを意識したものなのかもしれない。黙示録的な内容を古俳諧的なかたちで叙述した句、と言い切ってしまえば身も蓋もないが、三橋敏雄の特徴としてよく挙げられる「詩性と俳句性(平井照敏)」「純粋詩性と雑詩性(高橋睦郎)」の混淆→止揚は、たとえばこの句にみられるように、もはや内容と形式を分離して語ることが不可能なまでにナチュラルでオリジナルな段階に到達しているのだろう。
この句が巻頭に置かれることによって、『真神』は、「徐々に衰えていく『昭和と自己』に対するオマージュ」という性質を持つ句集となった。
この句集全体から強く感じられる肉体的・生理的な追憶、失われたことどもに対する屈折した執着、場を染め上げる夕暮れの光などの要素をすべて内包しつつ、『真神』の発句としてふさわしい格調の高さを持ったこの句は、無季の句としてすべての季節にふさわしい情景を提示しえたことによって、より普遍的な象徴性を獲得したのではないだろうか。
「昭和衰へ」の句が無季であることによって句集全体の象徴となる「発句性」を高めているのに比べ、やはり無季であるこの句は、中・下のストレートな表現のせいか、雰囲気がどことなく平句っぽい。というわけで「発句」に対する「脇」としてこの句を見ると、「昭和・馬→戦争」「夕→赤」という1句めからのイメージの連続・移行を看取することができるはずだ。
この句の最も重要なポイントは上五の「鬼赤く」だろう。一歩誤れば社会性俳句の紋切り型に陥ってしまいそうな「戦争はまだつづく」というモチーフが、ここでは「鬼赤く」という措辞によって、より象徴性を高め、しかも「俳諧的」とも言えるある種飄逸な雰囲気を漂わせたかたちで定着されているのだから。「鬼」とは地獄の羅卒の「おに」であり、「護国の鬼」などと言う場合の「死者」の意でもあり、さらには「鬼畜米英」であるかもしれず、それらのすべてを含んだ「姿の見えない、得体のしれないもの」(「おに」の語源は「隠(おん)」であるといわれる)であるだろう。このように「戦争」や「死」と関係の深い意味を重層的に持つ「鬼」という語は、日本人の心性の古層に深くつきささっている「恐怖」そのものの概念化であるのかもしれない。
そして、ここでの鬼は「赤い」。「赤鬼」という鬼の種類(?)があるのだから「鬼が赤い」のは当然なのだが、三橋敏雄の俳句世界において、戦争と「赤」は、空襲=火災の記憶によって鮮烈に結びついていることを、われわれは忘れてはいけない。
いつせいに柱の燃ゆる都かな (『まぼろしの鱶』)
またの夜を東京赤く赤くなる (『鷓鴣』)
「鬼」が「赤く」なるとき(「赤」にはもちろん「血」の含意もあるはずだ)、戦争は終わっていない。いや、「戦争」とは「鬼が赤く」なっている状態を指すことばであるのだ、とすら言ってもよいのだろう。
「昭和」と「戦争」をめぐる重い句をふたつ読んだところで、読者はこの何とも人を食った軽妙な句に出会い、素知らぬ顔でにやにやするユーモリストとしての三橋敏雄に出会うこととなる。「戦争」から「鉄」へのイメージの連鎖や、前二句の「赤」と鉄の「黒」の対比を感じさせつつ、連句でいえば転調・変化を要請される第三の句として、この不気味ですらあるすっとぼけ方は見事だ。
上・中・下の頭がすべて「鉄」というばかばかしいくどさと、当然の事実をわざわざ俳句にする無駄の楽しさがこの句の眼目だが、「鉄バクテリア」という「ヘンな」ものを発見したことが何と言っても勝因(笑)だろう。ところで、「鉄バクテリア」とは何か。
『日本国語大辞典』(小学館)によると、
てつバクテリア は 「てつさいきん(鉄細菌)」に同じ。
てつさいきん【鉄細菌】化学合成をする細菌の一つ。鉄イ
オンまたはマンガンイオンを呼吸的に酸化して得られるエネ
ルギーを用いて炭酸同化を行なう無機栄養細菌。からだの周
囲に赤褐色の水酸化鉄を付着している。鉄鉱泉・鉄分を含む
沼沢地・水道の鉄管中にすむ。日本の水田に多く存在する。
鉄バクテリア。
だそうである。
ちなみにこの句も無季。三橋敏雄はありとあらゆる「俳諧的技法」を駆使して、「本質的な意味で『俳句』そのものである無季俳句」の実例を提示しようとしているかのようだ。
「鉄の中の鉄バクテリア」から「ヒト(母)の中のヒト(胎児)」へ。『真神』の中心をなすモチーフのひとつである「母=子=血」のエロティシズムが、ここで初めて登場する。この句の修辞上のキーワードは「母ぐるみ」。胎児は当然、母の中に存在する生命だが、胎児の視点からすれば、母は自分の周りにある着ぐるみや肉じゅばんのようなものであるはずだ。「母ぐるみ」という簡潔な一言で常識を見事に反転させ、生命力にあふれているはずの「母」を、生と死のはざまの世界にいる「胎児」があやつるゾンビであるかのように見せてしまう、三橋敏雄の技の冴えは恐ろしいほどである。
下五の「擬砲音」は、有季の句における「配合材としての季語」と同様の働きをしている。たとえば下五を「威し銃」としてみると、その句は冬の季に分類されることになる。しかし、ここで殷々と鳴り響くべき音は、メカニックで重く、前三句の「昭和・戦争・鉄」の余韻をはらんだ「擬砲音」でなければならないのだ。
*1……『真神』と三橋敏雄をめぐっての代表的な論考には、
坪内稔典「俳諧的技法の行方」(『俳句 口誦と片言』)
同 「生活の必要」 (同上)
夏石番矢「昭和50年代後半を迎えるための覚書」(「未定」10号)
同 「三橋敏雄の俳句作品 その昭和30年代と40年代 」
(「俳句研究」昭和五七年二月号)
高橋 龍「三橋敏雄」(「俳句研究」昭和五六年八月号)
沢 好摩「昭和四〇年代と三橋敏雄I・II」(「俳句研究」昭和五六年九・十月号)
同 「三橋敏雄論のためのメモ」(「俳句研究」昭和五七年二月号)
林 桂「三橋敏雄論の現在について」(『船長の行方』)
などがある。
*2……越蘭は森川許六門の俳人。掲出句は『正風彦根躰』(1712)から。