『真神』を読む(3)

                      村井康司

10 渡り鳥目ふたつ飛んでおびただし

11 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ

12 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

13 冬帽や若き戦場埋れたり

14 針を灼く裸火久し久しの夏

15 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

16 著たきりの死装束や汗は急き


「恒信風の俳句・原稿」にもどる

トップページにもどる




10 渡り鳥目ふたつ飛んでおびただし

 鳥という生き物は、妙に生々しいエネルギーを感じさせる存在だ。哺乳類の獰猛な、しかし暖かい「血」の匂いと、爬虫類の、われわれとは明らかに異質な生命力のふたつを兼ね備えているような、鳥特有の存在感が最もくっきりと現れる部位は、その目であるだろう。

 俳句においても、鳥の目はその「生命力」を象徴するものとして、さまざまな形で描写されてきた。たとえば加藤楸邨の「雉の眸のかうかうとして売られけり」、あるいは一茶の「花さくや目を縫はれたる鳥の鳴く」や、村上鬼城の「闘鶏の眼つぶれて飼はれけり」など。

 これらの句における「鳥」は、人間が感情移入することが可能な書かれ方をしている、と言えるだろう。しかし三橋敏雄のこの句は、同じ方向を見てひたすら飛ぶ「集団としての鳥の目」に焦点を当て、人間の感情移入をこばむ「自然のシステム」の一部としての鳥のエネルギーを活写している。

 表現技法上のキーポイントは「目ふたつ」という、やや舌たらずでもある言い回しがもたらす異物感であるだろう。渡り鳥の目がふたつであることは、普通ならわざわざ言及することもない「当たり前」の事実だ。そこを敢えてことさらに「発見」してしまう、というお馴染みの技法に加えて、助詞を省略したぎごちない書き方によって読み手の意識にひっかき傷を付け、作者が注目させたい「目ふたつ」に読者の注意を否応なしに向けてしまう、という力技を、ここでの三橋敏雄は実に鮮やかに駆使している。

 日本語の文法に沿って、恣意的な想像を働かせずにこの句を読んだ場合、三橋敏雄の多くの句がそうであるように、実は「解」はひとつではない。かと言って複数の解が別個に考えられるわけでもなく、まったく意味がつかめないのでもなく、単に曖昧な朦朧文体でももちろんない……という、この微妙な宙づりの状態。果たして「おびただし」いものは、渡り鳥そのものなのか、それとも渡り鳥の「目」であるのか、一対の目(目ふたつ)がおびただしく存在している、というのが正解なのか。「飛んで」の「で」が内包している因果関係は、いったいどういうことであるのか。 

 こうした疑問が生じる原因は、すべてこの位置に置かれた「目ふたつ」というフレーズにある。「渡り鳥( )飛んでおびただし」の( )内に「南へ」だの「はるかに」だのといった言葉を仮に入れてみると、いかにここでの「目ふたつ」が凶暴な力を句全体に及ぼしているかがわかるはずだ。そして読み手は、あたかも渡り鳥の目だけがおびただしく空に存在し、すさまじい自然の力を漲らせながら飛んでいくかのような錯覚に、しばしとらわれることになるのである。

先頭に戻る


11 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ

 渡り鳥が自然界のエネルギーを吸い取って去って行ったせいだろうか、季節は冬となり家は枯れて北に傾く。夏石番矢は『現代俳句キーワード辞典』(立風書房)の「北」の項で、「北」の語源についての「キタナシ(汚)・キタシ(堅塩)のキタと同根。黒く、くらい意」という『岩波古語辞典』の説を紹介してこの句を採り上げ、〈「家」が「枯れて」倒壊する方角は、ネガティヴな「北」がふさわしい〉とコメントしている。北風のせいではなく(そうだとしたら家は南に傾ぐだろうから)、衰弱し枯れた結果、「黒く・暗い」方角へ向けて崩れ落ちていく家。

 「如何にせむ」という、地面にへばりついて途方に暮れた人間のつぶやきは、前の句における「目ふたつ」の鳥たちの、天空を翔る輝かしい力と余りにも対照的だ。

先頭に戻る


12 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 家は北の方角に傾き、ものすごいスピードで本格的な冬が登場してきた。前回、「火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋」の項で動詞の多用について触れたが、この句の後半におけるたたみかけるような動詞三連発(「急ぎ」は「降る」にかかる副詞的な役割を担っているのだが)の切迫感はただ事ではない。まるで読者の目の前で、なにもない場所に一瞬のうちに大量の雪が出現したかのようなことばの魔術を、三橋敏雄はあっさりと操ってみせるのだった。

 しかも、この句の叙法に従えば、雪が「よみがへる」のが「降る」よりも明らかに時間的に以前であるわけだから、事態はいっそう複雑になる。雪国の上空に「雪」がよみがえり、それが急いで地上に降る、という解釈がまず考えられるだろう。常識的にはこの解釈が普通なのかもしれないが、「雪国」という地上の場所に雪がよみがえる、と書かれている場合、地上に積もった雪をまず想起するのが自然であるとも言える。もし後者の解釈を採用したとすると、地上にまず雪がよみがえり、その雪がどういうわけか空に上っていき、それが急いでまた地上に降ってくる、という不可思議な光景を、読み手はイメージすることになるのではないだろうか。

 もちろんこの句は、はっきりと断定的にそう書かれているわけではない。あくまで明晰で的確な語の配置を前提として、ことばそのものやその配列をほんの少しいじるだけで、立ち現れる景を異化・重層化させて宙づりにしてしまう、という絶妙の技術を、またしてもわれわれはここで目の当たりにしているのだ。そして、そうした技法上の冒険を行った結果としての句の佇まいが、一見ごく自然に書かれたかのような落ちついたものであることに、読み手はもっと驚くべきだろう。

先頭に戻る


13 冬帽や若き戦場埋れたり

 言うまでもないことだが、「戦争」は、三橋敏雄にとっての永遠のテーマのひとつである。新興俳句の同志たちが弾圧され、国家的な狂気にまきこまれて戦場へと赴き、才能ある多くの作家たちが戦死あるいは戦病死してしまったことに対する慚愧の念の深さを、読み手は彼のさまざまな句から看取することができるだろう。

 『真神』においては、この句と「戦歿の友のみ若し霜柱」「捨乳や戦死ざかりの男たち」が、戦争で死んで行った友たちへの直接的な鎮魂歌であるが、「戦亡の友いまあがりくるよ夏の浜」(『まぼろしの鱶』)、「立ち目つむる戦亡の友よ夏の空」(『巡禮』)、「当日集合全国戦没者之生霊」(『畳の上』以後)など、彼の句に繰り返し繰り返し現れてくる「戦死した者たちへの思い」は、俳句作家としての三橋敏雄の根本の部分にくろぐろと置かれ、彼のすべての作品に重たい影を投げかけている。

 前の句から連続する「冬」を舞台に、「若き戦場」という「省略による擬人化」と、「何によって」を明示しない「埋もれたり」という表現(その答えは、雪によって、あるいは時間によって、なのだろうか)を使って淡々と書かれたこの句は、華麗なテクニックや目立つ言い回しがないだけに、かえって作者の思いの深さをひしひしと感じさせるものだ。

先頭に戻る


14 針を灼く裸火久し久しの夏

 何のために「針を灼く」のかは書かれていないが、たとえば足にできた水疱状のマメを針で潰すとき、消毒のために針の先端を火であぶる、といったことなのだろうか。「はり」「はだかび」「ひさし」「ひさし」と続く「は」「ひ」の頭韻を辿ってこの句を読んでいくうちに、冬の「若き戦場」へと向かった思いは、いつのまにか裸火がゆらめく、はるかな郷愁のかなたの夏へとたどりついた。

 「久し久し」の繰り返しは、「針を灼く裸火久し・久しの夏」「針を灼く裸火・久し久しの夏」「針を灼く裸火久し久し・の夏」のどの読み方も許容できるように書かれているようだ。「針を灼く」という行為も、ろうそくなどの「裸火」も、そして「夏」も、みな「久しい」ものだ、という感慨。ここで読者は、白秋の「雪のふる夜昔ながらの蝋燭の裸火にうつし出されし」を思い出してもよいだろう。

 そして、「久し」というやや文語的で多義的なことばのもつ「時間が長い・永遠である・しばらくぶりである・なじみ深い」といった意味が重層的に響き合うことによって、遠い夏の夜の情景は、得も言われぬ優しさと郷愁を帯びて、しかし「針を灼く」という硬質な措辞のために甘さを抑えたかたちで、見事に句の上に定着されたのだった。

先頭に戻る


15 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

 「夏蜜柑」は一般的には春の季語とされているが、実が樹上で熟するのは秋であり、樹にたわわに実っているところをわれわれが見るのは、むしろ冬のことが多いだろう。ここでこの句の「季」は何か、という詮索をするのが意味のあることとも思えないが、もがれて市場に出た夏蜜柑の実がテーブルの上にある、と考えるよりも、枝に実をむすんだ夏蜜柑を遠くから見ている……と解釈したくなるのは私だけだろうか。

 この句を読むたびに思い起こされる句は、永田耕衣の名作「夏蜜柑いづこも遠く思はるる」(『驢鳴集』)である。放心と現実感の喪失、そして甘美な郷愁をあまりにも美しく現出させたこの句のことが、三橋敏雄の意識になかったとは考えにくい。耕衣よりもより力強く直接的に、涙の流れない、それだけに深い悲しみの状態をうたいあげたこの句は、「双涙」という聞き慣れない印象的な語の発見と、それに続く一音ずつを刻みつけるかのようなひらがなの連続、そして「ばかりなる」というストレートな強調表現のせいで、いっぱいに見開いた目や「双涙」が、まるで「夏蜜柑」の大きさになってそこにあるかのような、くっきりした強い印象を読み手に残す作品になった。  

先頭に戻る


16 著たきりの死装束や汗は急き

 死装束が「着たきり」なのは当たり前のことだが、いつものことながら三橋敏雄の発見する「当たり前」は、どういうわけか実に衝撃的でどこか恐ろしい。この「死装束」は、納棺のときに死者に着せる白いかたびらの類だと考えるべきなのだろうが、そうでなくとも、たとえば事故死や行き倒れや戦死や、とにかく人間が死ぬときに着ている衣服は、死んだ時点でその当人の意識にとっては「着たきり」である、という認識が隠されているのかもしれない。特に戦地における戦死の場合、兵士の多くは「着たきりの死装束」である軍服のままで斃れ、そのまま朽ち果てていったのだろうが、この句からそこまでを読みとるのはうがち過ぎなのだろうか。

 不思議なのは下五の「汗は急き」という措辞だ。死人を見ている誰か、あるいは「著たきりの死装束」という認識が頭に浮かんだ誰か(話者、というべきか)の汗がどっと出てきてだらだらと流れる、と読むのが普通なのだろうが、この句を反芻しているうちに、「著たきりの死装束」をまとった死者の体内から汗がどんどんにじみ出て、死装束を濡らしはじめる……という奇怪な情景が頭の隅に想起されてくるのを、読み手は抑えることができなくなるはずだ。

先頭に戻る


「恒信風の俳句・原稿」にもどる

トップページにもどる