『真神』を読む(6)

                      村井康司

30 寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き

31 日にいちど入る日は沈み信天翁

32 帆をあげて優しく使ふ帆縫針

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30 寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き


 ここから四句、船上生活をモティーフとした句が続いている。昭和二一年から四七年までの足掛け二七年間、運輸省航海練習所に所属する練習船の事務長として「船乗り」の暮らしを続けてきた三橋敏雄にとって、船上生活を題材にした俳句は、「日常詠」「生活詠」そのものだ、と言ってもよいだろう。昭和四一年に上梓された第一句集『まぼろしの鱶』には、同十年から三九年の間に作られた三二一句が収録されているが、この句集の根幹をなすものは、航海と船上の暮らし、寄港地での見聞や体験をモティーフとしたおびただしい数の作品たちである。

 戦後すぐ、「世界に冠たる海国・日本」が事実上崩壊・消滅した時点で船乗りとなり、練習船としての本来の航海だけでなく、引揚者や復員兵の輸送、朝鮮戦争の難民輸送、南方への遺骨収集などの業務に関わった三橋敏雄にとっての「戦後」は、まさしく船での生活の中にあったはずだ。しかし、きわめてリアルに社会情勢の波をかぶったに違いない「敗戦国の船乗り」の暮らしは、ある意味では、陸上に渦巻くさまざまなしがらみからの「海」という隔絶された世界への逃避でもあった、と言えるのではないだろうか。三橋敏雄が乗船していた運輸省所属の練習船には、海王丸や日本丸など、人々の「船」にまつわるロマンティシズムとノスタルジーがそのまま具現化されたかのような優美な帆船が多い。そうした、海と船についての人間のファンタジーが凝縮された美しい帆船に乗っての、「ファンタジー」とは裏腹でもあるリアルな「戦後」を航海し続ける暮らし。

 そのあたりの微妙な事情と心情については、『まぼろしの鱶』に付された長文の「後記」が参考になる。

「まだ国際航海は許されない頃であつた。凡そ近海を廻り尽くすうち数年で日本中に知らぬ港はなくなつた。港々は荒れていた。沖から見る日本列島は美しかつたが、常に波浪に隠れ易く、あわれであつた。(略)幸い私の乗つていた船は航海練習船であつたから、航海そのものが目的で、行方には、特に目的地は無かつた。全く私は海に逃れていたのである」

「私の選んだ職業は、期せずして、旅を栖の夢を叶えさせてくれたが、旅の道すがら現われ消えるすべての現象や風景は、いかに珍しく美しかろうとも、いつも私の予感にたがわず、遂に想像を絶する程、魅惑あるものではない事を確かめ得たに過ぎなかった。掠奪すべき美女、財宝、いわんや領土は、当然有り得べくもない。海象、気象はいかに変化に富もうとも、その唯中に暮らしている限り退屈さをまぬがれる事はできない。しかし貴重な退屈ではあつた」

 いささかこじつけにはなるが、「戦後、俳句形式に関わること」は、「敗戦直後に美しい帆船に乗り込むこと」とどこか似ているのではないか。限りなく美しい憧れと懐かしさをはらんだ、しかしその「幸せ」に到達する回路をあらかじめ封鎖されている「もの」に乗り組み、宙吊りの状態に耐えつつ、留まり続けること。それは美しいものを遠くから眺めて幻想にひたることでもなければ、憧れと懐かしさを捨て去って「現実的」になりきることでもない。『まぼろしの鱶』に収録された戦後の句たちは、「船上生活を続けること」と「俳句形式に留まること」との相似関係が、ある意味で生のかたちで現れたものである、と言えるだろう。

 比類なき完成度を誇る『真神』に対して、『まぼろしの鱶』の、特に戦後の作品群は、俳句作品としての結晶度では劣るものが多い。それを事実としては認めつつ、『まぼろしの鱶』での三橋の苦闘を、「このとき三橋に現れていた俳句史的課題は、俳句の近代を問うというものだったと考えることができる。俳諧的技法、つまり俳諧の獲得している表現のレベルが、新興俳句などの近代といかに交差するか、そういう劇的な場に三橋の試みはあったのである」(「俳諧的技法の行方」昭和五五年)として肯定的に評価したのは坪内稔典であった。最近では澤好摩が、邑書林句集文庫版『真神・鷓鴣』の解説において「少年・三橋敏雄が俳句史に登場してから『真神』『鷓鴣』までの時間とは、三橋敏雄が少年そのものであった時期と、三橋敏雄の作品発想における原体験としての<少年>を改めて意識するに至るまでに流れた時間のことでもある。(略)『真神』『鷓鴣』に至って、三橋敏雄は少年から<少年>への長い過程に決着をつけたのだ。少年から<少年>への長い過程とは、すなわち『まぼろしの鱶』一巻の歳月である」という視点を提出している。

 この稿は『まぼろしの鱶』を論じる場ではないので、これ以上深入りはしない。『真神』との関わりで特筆しておきたい事実は、前者ではあれだけ多かった船上生活や航海、寄港地を題材とした句が、後者ではたったの数句(「寄港地をいくつ去るべしセロリ抱き」から続く四句以外では「ふなびとの日焼もさむし北わたり」「居る船は白い大きな黴の船」ぐらいが、はっきりそれとわかるものである)しかない、ということだ。

 伝記的事実を言えば、三橋敏雄が海上生活に終止符を打ち、平河会館支配人となったのは昭和四七年一二月のことだから、翌年十月に上梓された『真神』所収作品のほとんどは、三橋がまだ練習船事務長を勤めていた時期に書かれたものである。つまり、『真神』での「船上俳句」の少なさは、確実に作者の意図的な計らいであるわけだ。しかも、選ばれた少ないその句たちは、『まぼろしの鱶』での生々しさとは対照的な、ほのかな切なさとノスタルジーを帯びた、「淡彩の記憶」とでも呼びたい色合いを持ったものである。

 それらの句は、「郷愁の句集」「夕暮れの句集」でありつつ、曰く言いがたい人間の感情の「普遍」を刺激する『真神』の世界にぴったりとフィットし、その上で「山」と「家」と「血」の匂いが濃い『真神』の中において、「海」と「自由」と「風」、そして淡い光を感じさせる「通風口」の役割をも担っている、と言えるのではないだろうか。

 掲出句にあっては、「セロリ抱き」という、ある意味では感傷的な、少女がするにふさわしい、とすら言える行為が、「寄港地をいくつ去るべし」の感慨を、あくまでも優しく、柔らかく受けとめている。「去る」と「セロ」のかすかな音韻対応も、それがほとんど無声音で発音できるものだけに、頬をそっと撫でる微風のように軽やかで、そして切ない。なお、セロリは季語としては冬に属するが、ここではそのことはあまり意識する必要はないのだと思う。もっとも、この句の情景にふさわしい光は、セロリの茎のような淡い色の、冬の日差しであるような気はたしかにするのだが。

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31 日にいちど入る日は沈み信天翁


 この句については、立風書房版『現代俳句全集・4』の「自作ノート」で、作者自身が言及している。引用してみよう。

「『天狼』昭和四十年四月号に初出の、この句の原形は、中七が『没る日を沈め』とある。昭和四十四年になって、こう改作した。

 しんしんと肺碧きまで海の旅 篠原鳳作 ほか、有名な一連三句をどこかで下敷にしているが、さらに言えば、大正十二年作の、

 わたつみの空わたる日の沈むまで一つの船にあふこともなし 島木赤彦 の、遥かな影響下にある」

 初出形と比較すれば、「没る日を沈め」という擬人法を解消し、さらに「没る」を「入る」という平易な表記に書き改めることによって、ストレートなスケールの大きさを獲得した、ということになるのだろうか。「日にいちど入る日は沈み」ということは、まさに当たり前の事実なのだが、それを「入る日は沈み」という重複表現を敢えて使って悠然と述べ、なんとも茫洋とした雰囲気を感じさせている。それはもちろん「信天翁(あほうどり)」にふさわしいゆったりとした味わいであるのだが、この情景に最もふさわしい船は、やはりエンジン音をたてずに帆走する大型帆船なのではないか、と思えるのだ。

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32 帆をあげて優しく使ふ帆縫針


 先日、筆者は横浜港に係留されている日本丸を見学に行ってきた。昭和三二年十二月から同三五年十月まで三橋敏雄が事務長として乗り組んでいたこの練習船は、全長九七メートル、総トン数二二七八トンの、実に美しく気品のある帆船である。たまたまその日は「総帆展帆日」にあたり、普段は畳まれているすべての帆が拡げられていたのだが、初めて帆船の内部を見て感じたのは、帆船というものは、なんと「優しい」感触のマテリアルによって構成されているものであるか、ということだった。乾燥させて二つ割りにした椰子の実によって磨かれるチーク材の甲板、階段の手すりや窓枠に使われている真鍮のあたたかい輝き、そしていたるところに使われているロープの麻と帆布のざっくりとした感触。

 日本丸係留地にある「マリンタイム・ミュージアム」で、日本丸が現役練習船だったころに撮影したビデオが上映されている。晴天の日に帆走する船の後甲板に並んで座り、帆を縫いつくろう練習生たち。それはまさしく、この句に描かれている情景そのままだった。「優しく使ふ」という措辞は、丁寧に針を使うさまの実感であるとともに、滑るように進んでいく帆船のすべてが「優しい」のだ、ということを表してもいるのだろう

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